21節と22節ではペテロがイエス様に赦しの事について質問しました。「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」ユダヤ人達の間では、だいたい3回ぐらいまでは赦し合うべきだと思われていたようです。その為、ペテロが7回まで赦すべきだとイエス様に言った事で、イエス様に褒められると期待していたかもしれません。
しかし、ペテロの期待は外れました。イエス様は7回を70倍にしなさいと言われました。創世記4章24節にはこうあります。「カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」ここからも分かるように、神様はとにかく赦しの心を持つ大切さを教えられているのです。
ペテロはイエス様を知らないと3回拒んだ後、イエス様と目が合い、自分の愚かさに気づき大泣きしました。彼自身、そこで自分の弱さを知り、自分には神様の赦しが必要だと認識しました。そして、常に赦しの心を持っておられる神様に感謝したことでしょう。
寛容な王様 23節と27節
マタイ13章では多くのたとえ話を使って、天の御国はどのような人の為にあるかなどが話されています。今日のレッスンでは23節にあるように、神様はこのように寛大な心を持っておられる王様に似ているとたとえ話が始まっています。「ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。」24節と25節「清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。」この者は多くの借りが王様にあったようです。読んで見ると分かるように、彼は本当に困っていました。お金を返せないなら、罰として、自分自身も妻も子供達も売って、返さないといけない所まで来ていました。ここで言われている事は他人事ではありません。全ての人間は神様の前で罪を犯し、大きな借りがあると聖書に書かれてあります。そして、それらの借りを返す為に、私たちがどんなに頑張っても返せません。神様からの赦し以外他には方法がないのです。
26節「それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。」この者は本当にヘリ下り、主のあわれみを求めました。このようにヘリ下る者を神様はあわれみ、赦して下さるのです。詩篇51篇17節「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。」また、詩篇34篇18節「【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ霊の砕かれた者を救われる。」
27節では、王様は彼の借りを全てチャラにして下さいました。「家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。」本当にやさしいお方です。マタイ9章36節は、どんなにあわれみ深いお方かが良く分かる言葉です。「また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」赦された者は妻と子供達とどんなに喜んだ事でしょう。イザヤ書55章7節にはこうあります。「悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。【主】に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」ここにあるように、私たちが心から主を求めるならば、豊かに赦してくださるのです。しかも、中途半端な赦しではなく、豊かに赦して下さるとあります。感謝します。
赦さなかったしもべ 28節から30節
イエス様は続けて赦さない霊を持っている者はこうなるとたとえ話を続けられました。28節から30節「ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。」この者はさっき大きな借りを免除してもらって、喜んでいた者です。自分自身は多くの借りを主から赦され、自由にされたのに、彼から少し借りていた者が彼にあわれみを求めても、赦すことなく、牢屋にぶち込んでしまいました。肉の心を持っていると、時々何をするか分からないくらい、恐ろしい事を人は他の人にします。このように赦さない心を持っている者は、神様の裁きの座に立った時、どのように言い逃れが出来るでしょうか?
アダム・クラークは仕返しとは、人間が生れつき持っているものだと言っています。IIサムエル記13章を読んで見ると、アブサロムは自分の妹タマルを汚したアムノンを赦す気持ちがまったくありませんでした。その後、アブサロムはアムノンを殺してしまいました。
一方、ヨセフは自分の兄弟に売られ、知らない国に奴隷として連れて行かれてしまいました。でも、ヨセフは彼の兄弟を赦しました。創世記50章21節「ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたも、あなたがたの子どもたちも養いましょう。」このように、ヨセフは彼らを安心させ、優しく語りかけた。」他の人をあわれむ者は、神様からもあわれみを受けるのです。イエス様もこのように祈りなさいと主の祈りを教えて下さっています。マタイ9章12節「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」また、ルカ書6章37節にもこうあります。「さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。」
ある女性は2年以上神様を求めていました。そして、やっと彼女は「神様、私は何でもします」と言う気持ちまで来ました。彼女がなかなか救われなかったのは、彼女の兄弟を殺した人を赦す事ができなかったからでした。でも、ある雨の降っている夜、神様は彼女に問いかけられました。「彼を赦しますか?」彼女は神様にこのように答えました。「わたしもあなたの赦しを求めています。だからこそ、私も彼を赦します」彼女がこのように言った瞬間、彼女は救われ、勝利を受けました。
また、ある男性が同じように神様を求めていました。そして、牧師が彼に話しかけた時、彼は牧師にこのように尋ねました。「クリスチャンになる為には、私も皆を赦さなければいけないのですか?」そして、牧師は「はい、そうです」と答えました。彼は、「では、私はクリスチャンになる事が出来ません」と言ったそうです。神様の律法は今も変わりません。「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。」
l イエス様は自分を十字架にかけた人々を赦し、天のお父様にも彼らを赦してくださいと祈られました。
l ステパノも自分に石を投げている人々の為に祈り、「神様、彼らにこの罪を負わせないでください」と祈りました。
l ローマ12章19節「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。」
裁かれる 31節から34節
31節から34節「 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。」ここで「獄吏たち」と言う言葉が使われていますが、聖書でこの言葉が使われているのはここだけです。分かりやすく言うと、「拷問者」です。肉体的に苦しめる人達を意味します。もしこれが裁きの時だったら、拷問が永遠に続く事になります。獄史たちとは誰の事かはっきりと聖書には示されていません。しかし、私たちも人々を赦さなければ、相手に対してずっと怒りを持つことになり、それによって、自分自身をずっと苦しめる事になるのです。箴言15章3節にはこうあります。「【主】の目はどこにもあり、悪人と善人を見張っている。」主は私たちがする事の全てを見ておられ、知っておられます。主の御心にかなった歩みをするなら、裁きの時、私たちが主の前に出ても、恐怖に陥らなくてすむでしょう。33節にあるように私たちは周りの人達にいつもあわれみ深くあるべきではないでしょうか。「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』」
警告 35節
35節「あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」私たちは心で神様の救いを受け、この心で神様を愛しています。だからこそ、この心で周りの人を赦しましょう。そうでなければ、35節にあるように、私たちも天の父に赦していただくことができません。
ゴールデンテキスト
マタイ18章27節「家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。」