今日は読んでいませんが、9章には神様がイスラエルの民達に対して好意を示された事が書かれてあります。神様はご自身を彼らに現わされ、また律法を彼らに与えられました。イスラエル人こそ、メシヤが与えられる約束を神様から直接得ていました。しかし、実際与えられた時、彼らはそのメシヤを拒み、信仰による義ではく、律法による行いを選びました。ローマ9章31節と32節にはこう書いてあります。「しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。」今日の10章では、パウロの強い願い「皆が救われること」から始まっています。
1節から3節には、パウロがユダヤ人に対して懸念を持っている事が記されています。パウロはそのように懸念を示しただけでなく、彼らの為に真心を持って祈りました。多くのユダヤ人達は、パウロの事を良く思っていませんでした。しかし、パウロはそんなことは気にせず、率直に真実の福音を宣べ伝えて行きました。
ではユダヤ人には、どうして真の福音が受け入れられなかったのでしょうか?ユダヤ人には、神様に対して熱心な気持ちがなかったからでしょうか?いいえ、2節にありますが、彼らは神様に対して熱心である、とパウロは言っています。ただユダヤ人は、誤って導かれていたので、真の福音を直ぐには受け入れる事が出来なかったようです。パウロ自身イエス・キリストに出会うまでは全く同じような状態だったので、自分の経験を活かし、それらのユダヤ人に対しても忍耐を持つ事が出来たのでしょう。
しかし、ユダヤ人は神様に言い訳を言う事は出来ません。それは、彼らの目の前で旧約聖書の預言が成就したからです。イエス・キリストは、彼らのただ中に住まわれ、奇跡を行い、また天の奥義も語られました。イエス・キリストから直接指導を受けた弟子たちも証し、メシヤの死やよみがえり、また私たちを救い出す事が出来る事を証しましたが、3節にあるように、彼らは「神の義に従わなかった」のです。ユダヤ人はまずへりくだる事が出来ず、神様に頼り切って歩む事も出来ませんでした。
4節には「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」とありますが、律法は人を罪に定める事は出来ましたが、人を罪から解放する事は出来ませんでした。その為、イエス・キリストは私たちの罪の罰を代わりに受けて下さり、私たちが罪から解放されるようにして下さったのです。
5節に、律法の義に従って歩むなら、その義によって生きると書かれています。しかし、律法を勧告として受けても従わなければ、のろわれるとも言われています。(ガラテヤ書3:10、申命記28:26)それはやはり、罪が心にあれば、不信仰で信じる事が出来ず、律法に違反してしまうからです。パウロも言っています。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3章23節)私たちは律法によって義と認められるのではなく、信仰によって義と認められなければなりません。
6節と7節には誰が天に上るだろうとか、誰が地の奥底に下るだろうなどと言ってはいけないと書いてあります。それは8節にもありますが、神様は何もあいまいにしていなくて、全てを明確に私たちに示してくださっているからです。神の御言葉は私たちの近くにあり、単純に私たちが理解し、従えるようにして下さっています。またイエス・キリストご自身がこの地上に来て、私たちがどのように歩むべきかも示して下さいました。それだけでなく、イエス・キリストは死に打ち勝ち、罪に対して勝利もされました。10節にこう書いてあります。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」そう、イエス・キリストが私たちの為に何をして下さったかを信じ、口で告白しないと救われないのです。「告白」する事により、私たちはイエス・キリストこそ私たちの救い主です、と宣言することになるのです。11節には、「聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」アーメン!
救いとは私たちが何かをして達成するものではなく、私たちが受けるものです。(Wilbur Dayton)
マタイ10章32,33節「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。
13節には「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」とあります。神様を呼び求めるには、まず神様に信仰を置いていなければ難しいでしょう。また宣べ伝える人がなくて、どうして聞くでしょうと14節にありますが、この宣べ伝える人とは牧師を指しているだけでなく、福音を信仰で受け入れた私たちみんなを指します。しかし、16節と17節にもありますが、現実には、福音を宣べ伝えても従わない人がたくさんいます。これは今に始まった事ではありません。この問題は人々が無知だからではなく、罪がそうさせているのです。
ヘブル11章6節「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」
神様は人間にメッセージを送りますが、私たちに強要はしません。(Adam Clarke)
ゴールデンテキスト
ヨハネ1章12節「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
BMC日曜学校テキスト〈大人のクラス〉より
翻訳 猪坂 知央