エゼキエル書の3章までを簡単に紹介します。1章は「神様に呼ばれたエゼキエルについて」、また2章は「エゼキエルが任された事について」そして3章では「4つの生き物が幻で登場した事について」などなどです。3章の幻を見た後、エゼキエルは神様の栄光があまりにも凄かったので死人のように倒れてしましました。(128節)

 

このような言葉『神である主はこう仰せられる』は47回この書に書かれてあります。エゼキエルはまるで神様の口の一部分であるかのように、人々の罪の結果が捕虜になる事だった事を民に伝えました。

 

1節にあるように、エゼキエルは地に伏していましたが、神様は彼に「立ち上がれ」と言われました。神様は彼に語ろうとしましたが、エゼキエル自身もそれらの支持を受ける為の心の準備が必要でした。この「立ち上がれ」と言う言葉の意味は、前向きになり、聖霊の導きに従いなさいと言う事です。2節にはこのようにあります。「その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちに入り、私を立ち上がらせた。そのとき、私は私に語りかけることばを聞いた。」アダムクラークは、この時にエゼキエルに聖霊が入り、彼は聖められ、神様の使いとしての任務に適した者とされたと言っています。また、エゼキエルが今から任される大きな任務を果たす為には、聖霊様の助けが必要でした。聖霊様がエゼキエルに内住される事によって、彼は神様の御心を達成する事が出来たのです。私たちも同様で、神様の御心を行う為には、聖霊様の導きが必要だと言う事です。

 

3節にはこのようにあります。「 わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。」エゼキエルはここで誰に語らなければいけないかを告げられたのです。この章の中だけでも、この「そむいた反逆の国民」と5回もイスラエルの民の事が言われています。このヤコブの子孫は神様に背き、律法に反した行いをしていました。この「国民」とはヘブル語で異邦人の国民とも理解できるようです。イスラエルの民達は罪のせいで神様から引き離されて、神様と疎遠な状態だったと言えるでしょう。彼らが偶像に対して礼拝をしている姿を見ると、まるで一度も真の神様に会った事の無い民のようだったとあります。イスラエルの民は神様から遠く離れた者となってしまっていました。3節の終わりを見ると、「今日もそうである。」とあります。彼らに立ち返って欲しいと、神様は彼らに試練(捕虜になる事)を許されましたが、彼らはレッスンを学ばなかったようです。4節にこうあります。「彼らはあつかましくて、かたくなである。」彼らの問題はただ無知だったからではなく、頑固だったと言えるでしょう。その為、神様は彼らに警鐘を鳴らすためエゼキエルを遣わされたのです。

 

エゼキエルは預言者なので、自分の話したい事を民に伝えるのではなく、神の言葉を伝えるのが彼に任された仕事でした。その為、エゼキエルが民に何かを言う時は必ず4節にあるように「神である主はこう仰せられる」と言ったので、この書だけでも200回以上、この言葉が記されています。エゼキエルが民に神の言葉を伝えた後は、民達が聞こうと聞くまいとエゼキエルの責任にはなりません。その為、エゼキエルも神様から伝えられた言葉を忠実に民に伝えないといけない責任を感じていたでしょう。例え、民達に言っても無駄だと思っても、彼には責任を果たす必要がありました。私たちの牧師や宣教師もそうです。周りの状況に関係なく、神様の言葉を私たちに忠実に伝えるのが仕事だからです。彼らの為にも祈り、支えましょう。

 

ここから分かるのは、神様は私たちに指示するだけでなく、目的を達成する為にも力を与えてくださる、ということです。

 

エゼキエルにとって険しい任務が彼の目の前にありました。でも神様は彼に6節にあるように励まされました。「人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。」預言者、牧師、また宣教師など神様の働きをしている方々はどんな状況でも、皆から反対されても、神様の言葉を変えたりしてはいけません。神様は私たちを恐怖から解放する事もできます。神様に出来ない事はありません。私たちは人間を怖がるのではなく、これからも全てを神様にお任せして、従って行きましょう。

 

マタイ1028節にこのようにあります。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい

 

8節の所にはこうあります。「人の子よ。わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」神様の言葉を語るのが難しい時が来るかもしれませんが、8節に、私たちまで神様に逆らってはいけないとあるように、どんな言葉も神様が語れと言うなら、私たちは忠実に従う必要があります。私たちはいつも心を柔らかくし、聞く耳を持つ事が大切でしょう。

 

次に、神様はエゼキエルに「あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ」と言われました。そして、幻の中でエゼキエルに手が差しのばされ、その手には巻物がありました。その巻物の内容は10節にあります。「それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。」もちろん、その巻物を食べろと言われたら、苦い物と想像すると思います。しかし、その巻物ははちみつのように甘かったようです。(33節)この巻物は神様の言葉を象徴しているものです。私たちが何かを食べるとそれは私たちの体にとって必要不可欠なエネルギーとなります。それと同様、神様の言葉をもっと深く読んで、考えて、出来る限り吸収しようとすれば、私たちの魂にとって力となるでしょう。そのように神様の言葉にもっと親しめば、私たちの信仰は強められ、魂も守られるでしょう。この巻物の「嘆きと、悲しみ」と示されていますが、それは、神の道に逆らう者達にとっては、この神様の言葉は警告と裁きになると言う事です。イエス様が私たちに必要な物として与えようとして下さっている物は、もしかすると、私たちは欲しくないと思うものかもしれません。でも、そこはイエス様を信頼して、受け入れましょう。それは、必ず私たちにとって必要不可欠な物となるでしょう。神様は全てをご存知で、私たち一人一人に必要な物をご存知です。これからもこの神様に信頼して歩んで行きましょう。

 

ゴールデンテキスト

 

ローマ書1529節「あなたがたのところに行くときは、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと信じています。


 BMC日曜学校テキスト〈大人のクラス〉より

 

翻訳  猪坂 知央