今日の出来事はピリポ・カイサリアと言う所で起きた出来事についてです。イエス様はガリラヤ地方に22か月もの間滞在されていました。イエス様にはいつも多くの群衆がついて来ていて、多くの者がイエス様の話しを聞き、奇跡を沢山見ていました。しかし、実際の所、イエス様が誰か、はっきりと分かっていた人はいたのでしょうか?物珍しさに人々は圧倒され、一番大切な事を見逃していたのではないでしょうか?イエス様はこれらの後、北側へと移動し、群衆からも離れ、弟子たちとの時間を大切にされました。もう、イエス様が十字架にかかる時が近づいていたからです。

 

l  私たちも時々、人々から離れ、神様との時間を持つ事を大切にしましょう。そうしたら、忙しさの中、見えていなかった大切な事が見えて来るかもしれません。

 

イエス様の事をもっと知る事は幸いな事 13節と17

 

マルコ822節から26節ではイエス様は盲目の男性を癒されています。その後、ピリポ・カイサリアでイエス様はこのように弟子たちに尋ねられました。13節「さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。」私たち自身、イエス様を誰だと思いますか?

 

イエス様について少し学んで見ましょう。

 

1.    イエス様は天のお父さまから遣わされた方 

 

ヘブル書415節「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」イエス様はいつも私たちがどんな境遇にさらされているか全てご存知です。イエス様は必要があるならば私たちを非難し、間違った道に行かないように正して下さいます。その為、私たちはイエス様から非難されることも祝福も感謝すべきではないでしょうか?忠実に私たちを導いて下さる方に感謝します。

 

2.    イエス様は神の御子 

 

イエス様はただ死ぬ運命にあった方ではなく、私たち人間の全ての罪の生贄として送られたお方でした。人々は暗闇の中にいて、いつもメシアを待ち望んでいました。しかし、イエス様が来られたので、もう待ち望む必要はなくなり、暗闇の中にいる必要もなくなりました。イエス様は私たち皆の救い主となって下さったのです。そそれだけでなく、私たちの個人的な救い主となって下さるのです。ヘブル書724節と25節「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。

 

弟子たちはイエス様にこのように答えました。14節「彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」そして、今度、イエス様は弟子たちに直接聞かれました。15節 「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」」ペテロは即座にこのように16節で答えています。「シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」」ペテロはこのように声に出して、イエス様こそ神の子キリストだと告白しました。結果、彼は祝福されました。17節「すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」私たちは声に出して、イエス様こそ救い主、キリストだと証していますか?まず、このようにイエス様こそ救い主、キリストだと証する為には、私たち自身、罪から解放され、喜び輝いていないと難しいでしょう。日々神様との交わりを大事にし、神様の言葉を読み、勉強し、牧師の話しを聞き、日頃から御言葉の中に生きるなら、私たちは喜んで、シモン・ペテロのように「あなたは生ける神の子キリストです。」と言う事が出来るでしょう。

 

祝福を受ける教会とは 18節から20

 

イエス様の事をキリストとはっきりと告白する者にとって、イエス様は礎となり、しっかりとした土台になって下さいます。私たちの教会はきよめを教えていますが、これらの基礎は人ではなく、キリストです。イエス・キリストこそ私たちの礎なのです。私たちの信仰がしっかりとキリストの上にあるならば、私たちの信仰は揺らぐ事がないのです。今まで、クリスチャン達は沢山迫害を受けて来ました。そして、全てのクリスチャンをこの世から排除しようと世のリーダー達はしてきましたが、出来ませんでした。今までの先輩方も皆と励まし合い、悪に打ち勝って来たのです。イエス様は私たちを捨てたりせず、かえって、しっかりとした土台となり私たちを支えていて下さるのです。18節「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」私たちがイエス・キリストの上に信仰を置くならば、今までも倒れなかったように、これからも倒れる事はありません。なんと幸いな事でしょう。また、イエス様こそ全ての鍵を握られています。それらを私たちに与えるとあります。19節「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」」そう、イエス・キリストこそ全ての鍵なのです。イエス様に信頼を置くからこそ、失望に終わる事はないのです。マタイ2818節「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。

 

自己中心的な者は非難される 21節から23

 

21節にはこうあります。「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。」これらの事を聞いた弟子たちは何を話し合ったでしょう。ただ分かるのは、今までの日々は何時か終わる事、また、真実に対する迫害が始まる事。それらを予測する事は出来たでしょう。イエス様もいなくなる前に、弟子たちの信仰をしっかり立たせようと、弟子たちとの時間を大切にされました。しかし、刻々と弟子たちの信仰が試される時が近づいていました。多くの者は奇跡と祝福を求めていると思いますが、苦しい事からは逃げようとします。しかし、完全にきよめていただいた心を持っているならば、周りの状況がどうなろうとも、神様の御心のただ中に留まる事が出来るでしょう。Iコリント1013節「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

 

イエス様が天国のお話しをしていた時、ペテロはこれから先も絶対に大丈夫だと言う信仰を持っていると思っていました。22節「すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」」私たちがイエス様について行く決心をする時、どんな時でも聖霊様の導きに従う覚悟が必要です。イエス様はペテロを非難してこのように23節で言われました。「しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」」その後、実際に彼の信仰が試された時、彼には神様の恵みがもっと必要でした。そして、ペテロの信仰が試された時、彼は自分自身を守る行動(問題から逃げる方向)に走ってしまいました。まず、私たちがしないといけない事は自分自身を捨て、イエス・キリストに従う事です。もしそうすれば、その者達は教会にとっても素晴らしい祝福となり、足を引っ張る事はないでしょう。

 

ではどうしてイエス様はペテロを非難されたのでしょうか?

 

1.     イエス様は弟子たちに「もう少ししたら、私は宗教指導者達によって迫害され、殺されます」と説明されました。そう、宗教指導者によって迫害されると、イエス様ははっきりと言っています。今でも、完全に自分を捨てる事をせず、クリスチャンとして歩んでいる人は沢山います。そして、自分の思うように教会で事が行かなくなると、教会に対しても、神様に対しても批判的になるのです。宗教指導者達が神の御子に対してこのような殺意を持ち始めた事は、とても恐ろしい事です。自分を捨て、神様に従う大切さがここから分かると思います。

 

2.    ペテロは16節で、イエス様を「生ける神の子キリスト」とはっきりと言っていたにも関わらず、イエス様が言われたことを正そうとしました。肉の心を持っていると、イエス様が言われる事よりも自分の方が正しいと思ってしまうのです。ローマ87節「なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。

 

肉の心を持っていると、真実を見逃してしまう危険性があります。ペテロは、「死」は人生の終わりだと思っていた事でしょう。私たちは「自分に死ぬ」と聞くと、何を思いますか?「もう楽しい事が無くなる」と勘違いしてしまうでしょうか?「自分に死ぬ」とは、自分の思いや考えだけで行動をするのではなく、聖霊様の導きに沿って歩む事を意味します。キリストと共に死んだ後は、キリストと共に生き返るのです。死ぬだけではないのです。感謝します。

 

3.    ペテロを非難されたイエス様の事を私たちはどう見るでしょうか?イエス様は酷いと思いますか?しかし、ペテロの信仰をしっかりさせる為には、まず彼自身、上の者(イエス様)に反抗するような者であってはいけない。その事を、イエス様は示されたのです。

 

例え、イエス様が間違っているように感じても、そして、私たちの方が正しいと思っても、イエス様に対して私たちは反抗するべきではありません。イエス様には失敗も間違いもない事をご存知ですか?イエス様に信頼と信仰を置いて、これからも歩んで行きましょう。そうすると、裏切られる事はありません。心をきよめて頂いた者は、例え強風に襲われても、イエス様に対して不信感を抱くのではなく、かえって神様の働きに貢献すべきです。気づかないうちに、神様の働きの邪魔をしていてはよくないからです。ペテロはイエス様に非難され、自分の間違いに気づき、主の道へと歩みを改めました。イエス様が天に上げられる前、イエス様は弟子たちにエルサレムに留まっていなさいと言われました。そして、ペテロはその通りにし、聖霊に満たされました。私たちはイエス様から非難されたら、怒って離れて行きますか?それとも、自分の間違いを認め、歩みを改めますか?歩みを改める者は祝福の道へと歩み始める事が出来るでしょう。

 

自分に死ぬ者は幸いです 24節から26

 

ペテロを非難した後、イエス様は弟子たちにこのように教えられました。24節から26節「それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」イエス様は本当の弟子とはどうあるべきかを弟子たちに教えられたのです。その中で、イエス様ははっきりと自分を捨て、自分に死に、そして、神様に従う大切さを教えています。イエス様はただ人を非難されるだけでなく、どのように歩むべきかをはっきりと示しても下さいます。

 

非難されたペテロは後にこのように宣言しています。Iペテロ118節と19節「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」きよめられると今までの価値観で物事を見るのではなく、本当に変えられた者として頂けるのです。

 

 

 

ゴールデンテキスト           

 

マタイ1624節「それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」