最初の感謝祭は、何も無く貧しかったアメリカ人によって開催されたイベントの一つでした。では、彼らはその1621年の秋、何を感謝したのでしょう?彼らはどんな状態だったのでしょう。見てみましょう。
彼らには食べ物が、あまりありませんでした。持って来た食物は無くなり、海で獲ることのできる魚、森でとらえることのできる動物の肉、そして、畑で収穫できる作物ぐらいしかありませんでした。彼らが持っていた道具はくわなどで、色々と何をするにも大変だったようです。そして、もちろん、腐葉土なども売られていなかったので、肥料として魚を捕まえて種と一緒に土の中に埋めていたようです。彼らが汗水たらして育てている食物を守る為、夜でも監視役を畑に置いて見張らせていたようです。とにかく、彼らは生きるのに必死でした。そして、食事の次に必要なのは家です。彼らは住む家を建てるために、木を切る所から始め、一生懸命建てました。しかし、皆が成功して食べ物を確保したり、家を建てたりできたわけではありませんでした。ある者達は病気になり、乗って来た船に戻って療養する人々も多くいたようです。
ある朝、船に乗っていた人々は、新しく建てた家が火事になっているのを見て、急いで現場へ行きました。現場に着いたとき、家の住民が無事だった事を知って、皆神様に感謝しました。あるフランス革命を乗り切った人はこのように言いました。「私は生き残った」と。同じように、メイフラワー号でアメリカにたどり着いた人々も、まさに「生き残った」事を心から神様に感謝していたのです。食べ物や物で満ち足りているから「感謝」ではなく、何も無いのに、「今生かされている事」また、「豪華では無くても、食べ物がある」事を感謝するべきでしょう。今は、「これは必需品」などと言って、自分の暮らしを豊かにする為に多くの物を必要としている時代です。その為、本当に人間に必要な物が何か分からなくなっているのが現状ではないでしょうか。
クリスチャンとは、困難な時でも、幸いな時でも、忠実なクリスチャンであるべきです。ヨハネはスミルナの人々に「あなた方は富んでいる」と言いました。その根拠は何でしょう?それは、彼らが神様からの祝福を思い出し数える事が出来るようになり、人々に与える事も出来るようになり、そして、プレッシャーの中でも神様に対して忠実であるべき事を学んだからだとあります。しかし、ラオデキアの教会の人々はその反対でした。ラオデキアの人々はシルクを作るのが上手で、世界中に知られ、大きな利益を得ていました。彼らは傲慢になり、どれほど神様を必要としているかも分からなくなり、神様に対して不満を持ち、感謝がなくなってしまいました。黙示録3章15節から17節にはこうあります。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」全てが上手く行き、富を得ているならば、感謝が出来やすそう、と思うかもしれませんが、実際はその反対で、富を得、全てが上手く行くとなぜか感謝が出来なくなってしまう人が多いようです。私達は日頃から、全ての事について感謝出来ているでしょうか?使徒パウロはピリピの人々にこのように言っています。ピリピ1章3節「私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、」
私達も今一度立ち止まって、全ての事を考えて見ましょう。そして、今までの事が当たり前ではなく、神様に守られ、与えられたんだと考えると、不思議と感謝があふれてくるでしょう。そうすると、なぜが喜びに満たされると思います。この感謝祭の週、(日本では勤労感謝の日)今一度、今までの事を振り返って、神様に感謝してみませんか?私達クリスチャンが感謝であふれ、喜びに満たされると、神様も喜んで下さり、周りの人々にも良き証を立てる事が出来るでしょう。
ゴールデンテキスト
コロサイ3章15節
「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」
ゴールデンテキスト
ヨナ書2章9節「しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」