詩篇107篇が書かれたのは、ちょうどイスラエルの民達がバビロンから解放された時でした。この107篇を書いた著者は誰か特定されていませんが、彼は皆が一つになって主に感謝を捧げようではないかと勧めています。

 

107篇の内容―

 

4節から9節― 砂漠で旅人が迷っている様子が描かれています

 

10節から16節― ある人々は苦しみの中を通り、死にも直面した事などが描かれています

 

17節から22節― 愚かな違反者が病気になり、死にかかっている事が描かれています

 

23節から32節― 船で嵐にあっている事などが描かれています

 

 

 

これらの4つの光景は、バビロンから解放されたユダヤ人が、母国に帰る時に直面した出来事の描写です。最後の33節から43節では、神様こそ、この地球全てを支配しており、人間も支配していると言う事が書かれてあります。神様は自然を通して人々を神様へと導く事もされます。高慢な者は低くされ、義なる者は上げられるのです。私達は今必要な物が与えられているでしょうか?もし必要が与えられているのであれば、それは、神様の私達への愛が示されていると言う事になるでしょう。

 

詩篇107篇を読んでみると、同じ言葉が繰り返されていることに気づくと思います。6節、13節、19節、28節「この苦しみのときに、彼らが【主】に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」 8節、15節、21節、31節、「彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを【主】に感謝せよ。」と呼びかけています。

 

 

 

感謝を捧げるように 1節から3

 

1節には「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」とあります。いつでも、どんな時でも、神様こそ、褒めたたえられるべき方であり、その理由は、「主はまことにいつくしみ深い。」とあるように、神様はいつも私達にいつくしみ深い方であられるからです。この詩篇で書かれている「哀れみ」(8節と15節)と言う言葉は、「良さ」と言うふうに訳す事が出来るでしょう。神様は約束を果たされる方であり、変わらない愛を持って私たちに接して下さるお方です。この詩篇でも示されているように、私たち人間が、この方の変わらない愛を受ける事が出来ているのは、幸いな事です。そして、神様によって贖われた者こそ、神様に感謝を捧げるべきなのです。ヨブ623節には「敵の手から私を救い出せ。横暴な者の手から私を贖え」とあります。このように私達が求めれば、神様は私達を敵から救い出して下さいます。

 

·        ヤコブ117節「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。

 

·        マタイ2431節「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。

 

荒野をさまよう 4節から9

 

ほとんどのイスラエルの民は、アラビアの荒野を通ってバビロンから出て、自分たちの国へと向かったようです。しかし、荒野での道のりは険しく、多くの人々は砂嵐により、目的地までたどり着く事が出来なかったようです。荒野の中にも小さな村などはところどころにあり、民達は必要な物を得る事が出来たようですが、やはり、彼らの道のりは大変だったようです。そのように、砂嵐により目的地を見失ってしまった人々が、荒野をさまよう事になってしまったのです。荒野と言うと、人気のない砂漠のようで、荒野で道を見失うのは大変危険な事なのです。食べ物も水も何も無い状態で多くの人々は滅びてしまいました。4節「彼らは荒野や荒れ地をさまよい、住むべき町へ行く道を見つけなかった。5節「飢えと渇きに彼らのたましいは衰え果てた。」皆さんも想像してみて下さい。食べ物も水もない、そして、道も見失ってしまって、希望がない状態を。今現在日本ではこのような問題に遭遇する人は少ないかもしれませんが、実際のところ、霊的にはこのような状態の人が多くいます。この世の物で心の乾きを満たそうとして満たされない人が、このような状態にあるのです。そして、何をしてよいのか分からなくなり、希望を失ってしまうのです。

 

そして、6節「この苦しみのときに、彼らが【主】に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」。多くの人々は苦痛を味合わない限り、神様を求めません。神様は、何時でも心から求める人を助けてくださるお方です。私たちが神様の方に向けば、直ぐにでも、神様は問題を解決する事が出来るのです。もしかしたら、力がなくて、大きな声を出せない状態でも、神様には彼らの嘆きが聞こえ、彼らを問題から解放する事がお出来になります。7節「また彼らをまっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせられた。」もう神様に助けられた人々は迷わず目的地へと向かう事が出来ました。また、ただの目的地ではなく、くつろぎと安らぎの場所へと導かれるのです。申命記3210節「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。

 

8節「彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを【主】に感謝せよ。」彼らはすごく大変な中を歩んでいて、そこから、神様の力によって解放されたのです。そこまでしていただきながら、黙っていられるでしょうか? 一度は彼らは荒野で滅ぼされそうになっていましたが、今は乾ききっていた魂も神様の良さにより全てが潤されたのです。

 

·        私たちクリスチャンはこの世の旅人であり、寄留者です。神様の守りが常に必要なのです。

 

·        神様を知らない人はまるで荒野をさまよっている人のようで、また、同じように迷子の羊のようです。

 

·        マタイ714節「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

 

·        マタイ56節「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

 

 

 

投獄された捕虜 10節から16

 

あるイスラエルの民達は捕虜として住んでいた場所に定住したり、また、ある者たちは投獄されたりしました。(エホヤキン王様など)投獄された者たちは暗い中に入れられ、恐怖が彼らを襲い、希望がない状態になったでしょう。彼らは10節にあるような「やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、」 状態だったようです。なぜ彼らはそのようになってしまったのでしょうか?答えは11節にあります。「彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。」 神様は彼らにも、もちろん忠実に何をするべきかを教えて下さっていました。しかし、彼らはそれに従わなかったのです。罪はまるで私たちを自由にしてくれるように見せてくるかもしれませんが、実際はその逆で、罪は私たちを縛り、奴隷にしようとしているのです。やはり、私たちは全てをご存じである神様に従うべきであり、自分の知恵にだけ頼ってしまうと、罪の奴隷となる恐れがあります。その為、神様は哀れみにより、彼らを教える為に、暗い道へと行く事を許されたのです。12節「それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。彼らはよろけたが、だれも助けなかった。」 誰でも、神様に従いたいと思うならば、へりくだり、自分の知恵だけに頼るのではなく、神様に頼る姿勢が必要です。苦しい所を通る事により、自分の弱さに気づき、神様の前でへりくだる事が出来、神様に戻ってくるならば、神様は喜んで私達を受け入れてくださるでしょう。13節と14節「この苦しみのときに、彼らが【主】に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。」悪い罪の癖からも解放され、完全に罪から解放される事が可能なのです。イザヤ9章2節「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

 

l  ローマ書6章23節「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 

l  もし、神様の支配下にいないのであれば、罪の支配下にいる事になります。

 

 

 

ゴールデンテキスト

 

詩篇921

 

【主】に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。