今日の詩篇127篇からは、「都上りの歌」と言われている歌の第二部になります。この詩篇を読んで見ると、私達の働きの上に、また、家族の上に、神様の祝福は必要不可欠なものである事が分かります。
128篇では主を恐れ敬っている人が、どのように祝福されるかが分かります。1節から3節では神様は幸せな家庭を喜ばれるともあります。今日の127篇と128篇からは、何をすれば幸せな家庭を築くことができるかが教えられています。
詩篇127篇
1節にはこうあります。「【主】が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。【主】が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」人間が例え成功しても、神様の祝福なしにはむなしいものになるでしょう。人間は健康、力、知恵など全てを神様に頼っています。申命記28章には、主の御声に聞き従う者への祝福リストが掲載されています。しかし、続けて、主の御声に従わないとどうなるかも書かれてあります。ソロモン王様は全ての人間が欲しがる富を得た人の一人として有名です。しかし、彼の人生の終わりの時、彼は「空の空」と、自分の人生を振り返ってこのように表現しました。全て彼がなしてきた事には満足出来ず、無駄になってしまったのです。
家庭を築き上げる為に、人数が増えればよいというものではありません。子供には、教育を与えるだけでなく、しつけをしていかなければなりません。良い子を育てるためには、周りからの助言だけでなく、神様の導きが必要です。神様のみ言葉に聞き従い、行い、神様の道を指し示す事が、最も大切です。
私達は、私達の国の上に立つ方々の為に祈っているでしょうか?ネヘミヤがエルサレムの城壁を再建していた時、働く者達に武装させ、敵を見張る見張り番を置きました。そして、ネヘミヤ書を読んで見ると、彼はいつも祈りの中で主にこれからどうするべきかを尋ね求めていました。ネヘミヤはただ武装して準備するよりも、いつも神様の導きと守りを求めていたのです。人間に出来る事は限られています。しかし、神様に出来る事は限られていません。
2節には、全ての物に満たされているけれど、無駄な人生を歩んでいる人の事が表されています。「あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」この世の全ての富を得たとしても、神様が共にいないならむなしいことが分かります。私達が世的なものに近付くと、自然に神様から離れてしまうのです。両立が不可能だからです。神様が共にいない人生とは、本当の安らぎを得られず、また、平和も得る事が出来ない人生です。ハガイ書1章6節には、神様からの祝福を得ずに、自分で富を得た人々の事が表現されています。「あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。」しかし、神様と共に歩み、神様の祝福を得た者は、本当の意味で満ち足り、平和を得、安らぎを得る事が出来ます。
4節にはこうあります。「若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。」子供達は神様から与えられたのであり、親は神様から子供を授けられる「信頼」を得たと言っても言い過ぎではないでしょう。エゼキエル書16章20節と21節では、子供達は神様の子とも表現されています。「あなたはまた、わたしのために産んだ自分の息子や娘たちを取り、その像にいけにえとしてささげて食べさせた。あなたの姦淫はささいなことだろうか。あなたは、わたしの子どもたちを殺し、これを焼いて、ささげ物とした。」残念な事に、今現在、多くの親は子供達を自分の所有物のように扱っていると思います。また、ある親は子供が生まれた事を残念がっています。3節にはこうあります。「見よ。子どもたちは【主】の賜物、胎の実は報酬である。」このように赤ちゃんを授かると言う事は、神様からの祝福を得たとも言えるのです。また、4節に戻りますが、若い時の子は勇士の手にある弓とも表現されています。弓とは敵をやっつける事にも使われますし、家族の為に獲物を仕留める為にも使われます。そして、子供達は大きくなって強くなっていきますが、親たちはその反対に年老いて弱くなっていきます。その為、霊的にも肉体的にも強くたくましく成長した子供達は、親にとって幸いな存在となるでしょう。だからこそ、小さい時から子供達を神様の道へと導き、良き模範を見せて行く必要があるのです。
l Iヨハネ2章14節「小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」
l 健全な教会を築く為には、霊的にも肉体的にも強い家族の存在が必要です。
詩篇128章
127篇の最後の節は、「幸いな人よ」と言う言葉で始まっています。そして、128章は「幸いなことよ。すべて【主】を恐れ、主の道を歩む者は。」という言葉で始まっています。神様と共に歩まない人と歩む人の違いが、ここではっきりと別れるのです。使徒の働き10章34節に「そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、」とあるように、神様はかたよった事をなさいません。同じように、私達も子供達の前で、かたよった事をしないように気を付けなければなりません。子供を任せられた親は、神様の道を正しく示すことが出来るようになるべきなのです。Spurgeonの言葉「もし心が神様と共にあるならば、足もそれについて行きます。」
また、127篇1節とは対照的に、128篇2節にはこうあります。「あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。」主を恐れる者は喜びをもって、収穫の実を得ることでしょう。しっかりと働くと、後に私達は報酬を受けます。神様は忠実に働く者を祝福されますが、怠け者を祝福される事はないでしょう。使徒パウロも怠け者に対してこのようにⅡテサロニケ3章10節から12節で言っています。「 私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」
ゴールデンテキスト
詩篇27編1節
「【主】は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。【主】は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。」