今日の詩篇112篇では、ハレルヤ!主を恐れる者、また、主の教えを喜びとする者は幸いと言う言葉から始まっています。主の素晴らしさと恵に心から感謝と礼拝を捧げている事が分かります。では、今日のレッスンでは、どんな人間が本当に幸福なのかを考えて見たいと思います。

 

 

 

その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ

 

詩篇1篇2節

 

1節「ハレルヤ。幸いなことよ。【主】を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。」ここで言われている「恐れは」とは「敬う」と言う言葉に変えた方が分かりやすいでしょう。この素晴らしい神様こそ敬われるべき方であり、愛される神様です。そして、本当に心から神様を敬まっているのであれば、奴隷のような状態で神様に従うのではなく、心から喜んで従う事が出来るでしょう。また、神様を本当に敬っているのであれば、自然と罪から遠ざかる事も出来るでしょう。皆さんもこのように言えるでしょうか?詩篇40篇8節「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。

 

 

 

 正しい人が潔白な生活をするときに、彼の子孫はなんと幸いなことだろう

 

箴言20章7節

 

2節にこうあります。「その人の子孫は地上で力ある者となり、直ぐな人たちの世代は祝福されよう。」ここにあるように、ただ義なる者だけが幸いになるのではなく、神様の祝福は子孫にまで及ぶとあります。その為、親の良き生き方により、子供達にも良い影響が及ぼされるのです。そうすると、彼らはその地域でも祝福の子となるでしょう。しかし現実には、その子達も良い選択をしなければならない時が来ます。その選択によっては、義の中で育って来ても、神様から離れてしまう人がいるからです。ただここで言えるのは、子供達に良き模範、道、そして、生き方を示すチャンスが親にはあると言う事です。

 

 

 

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です

 

Iテモテ6章6節

 

旧約聖書では、多くの物を持つ事が義なる者で、神様の祝福を得た者と見なされていました。ヨブものその祝福された者の一人でしたが、彼は全てを無くした事により、彼の友達からも「あなたは神の前で罪を犯した」のではないかと責められました。3節では栄などが義なる者達に約束されています。「繁栄と富とはその家にあり、彼の義は永遠に堅く立つ。」ここで言われている本当の富とは、霊的な恵、哀れみなどの富です。そして、欲を出さずに義なる道を歩むなら、天に宝を積んでいる者達には、神様は物質的にも祝福して下さるでしょう。

 

 

 

私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、【主】が私の光であるからだ

 

ミカ書7章8節

 

祝福されているから私には問題などは一切起こらないと思うのはちょっと違うようです。どんな者達でも、この世に住んでいるのであれば、問題に直面するでしょう。4節にはこうあります。「主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。」そう、どんな問題に直面しても、その中で、神様は私達に希望の光を輝かせて、導き出して下さるのです。私達が問題に直面する時、ローマ8章28節にあるように言えるでしょうか?「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」詩篇30篇5節「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

 

 

 

悪者は、借りるが返さない。正しい者は、情け深くて人に施す

 

詩篇37篇21節

 

幸いな人は周りの人々にやさしく接し、善意に振る舞う事が出来ます。ヤコブ1章27節にはこうあります。「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」5節では、「しあわせなことよ。情け深く、人には貸し、自分のことを公正に取り行う人は。」このように、自分の利益を求めず、周りに愛を示せれたら何と幸いでしょう。しかし、むやみに誰にでも分け与えるのではなく、さまざまなことを賢く行う必要があります。むやみにお金や持ち物をみんなに貸していたら、ただ皆に使われる人となってしまうでしょう。

 

 

 

l  天に心をとめているからと言って、地上では何もしないのは良くない。(Spurgeon

 

 

 

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない

 

詩篇62篇6節

 

例え、不幸が訪れても、義なる道から外れるのは良くありません。6節にもこうあります。「彼は決してゆるがされない。正しい者はとこしえに覚えられる。」まるで川の側に植わった木のように、周りの状況変化によらず、しっかりと信仰を保ち続ける必要性があります。悪魔は私達がどのようであれ、攻撃を仕掛けて来るでしょう。しかし、私達がイエス・キリストというしっかりとした土台に信仰を置いているのであれば、揺れ動かされません。いつか私達はこの世を去る日が来ます。その時、良い者の事は語り告げられていきますが、悪い事をしていた者の事は忘れられます。

 

 

 

【主】は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。【主】は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。

 

詩篇27篇1節

 

義なる者はどんな時でも全てを神様におゆだねします。7節、8節にはこうあります。「その人は悪い知らせを恐れず、【主】に信頼して、その心はゆるがない。その心は堅固で、恐れることなく、自分の敵をものともしないまでになる。」もし、その心が強固で神様に信頼を置いているのであれば、周りの状況に踊らされる事がなくなるでしょう。問題は続けて襲ってくるでしょうが、8節の最後に「自分の敵をものともしないまでになる」とあるように、ここまで強くさせて頂く事が出来るのです。

 

 

 

また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように

 

Iテモテ6章18節

 

神様は良い人にも悪い人にも雨を降らせて下さって、皆に恵み深い方です。だからこそ、私達も周りの者に対してけちけちしてはいけないとあります。私達も神様から恵まれているのですから、周りの人々に対して奉仕の心を持つべきだと言う事です。最初の教会も気前の良さで知られています。(使徒434節から37節)Iヨハネ3章17節「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。」慈愛に富んだクリスチャンの行いが自然に出てくるのが一番望ましいでしょう。そして、彼の義の行いは、永遠に残ると9節で約束されています。「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立つ。その角は栄光のうちに高く上げられる。」イエス様が私達を裁かれる時、私達の慈愛心を基本として私達を測られると思われます。マタイ25章40節「すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」。

 

 

 

まことに、【主】は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる

 

詩篇1篇6節

 

112篇の最後の節には、悪者の結末が書かれてあります。悪い者は義なる者が昇進するのを見て、いらだつと10節にあります。「悪者はそれを見ていらだち、歯ぎしりして溶け去る。悪者の願いは滅びうせる。」歯ぎしりをするとは、かなり怒っている事が分かります。悪者は一時的に、栄えていると思うかもしれませんが、義なる者が後に昇進し、悪者は後に滅びると言う事を忘れてはいけません。だからこそ、悪者に対して嫉妬を起こさないようにと言われているのです。

 

 

 

l  では、幸いな人は何によって幸いな人だと判断出来るでしょう?

 

l  Iヨハネ5章3節「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。

 

 

 

ゴールデンテキスト

 

イザヤ書26章3節「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。