昔の安息日は今とは違い、完全的な聖なる日と定められていました。その中、イエス様とお弟子さん達はいつも色々な人々を助ける為、大忙しでした。ある安息日、イエス様とお弟子さん達が麦畑を通っていた時、弟子たちは空腹を覚えたので、少し穂を取って食べだしました。その当時の律法では、これらの行為は盗みとは見なされなかったようです。申命記2325節「隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはならない。」そのような事をしていた事をユダヤ教の宗教指導者は見ました。そして、聖日にしてはいけない事をあなたの弟子たちはしていると非難しました。宗教指導者達はイエス様の立場が何(宮、律法、また、安息日)よりも優っている事に気づいていなかったようです。ダニエル記1713節と14節にこうようにあります。「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と栄誉と国が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、この方に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」イエス様こそ全ての主権と栄誉を与えられている方です。しかし、宗教指導者達は律法を守る事を大切にしすぎて、神の御子さえも見逃してしまったのです。6節「あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。

 

必要が満たされる 1節と8節

 

ここでも先週の時のように、イエス様とお弟子さん達は忙しくしていました。その為、彼ら自身食べる暇もないくらいでした。その都度、イエス様はそこにあるもので出来る事をなさっていました。ある時は男の子のお弁当を使って5000人もの人々の必要を満たされました。また、次の時はまた別の食べ物を用いて4000人もの人々の必要を満たされました。イエス様は人の持っているものを用いて色々な御業をなさいます。私たちの救いも同じでした。私たちは自分の魂を救う事など出来ません。魂の救いは全てイエス様が私たちにしてくださる御業です。ただそれが成るためには、私たちの持っているものを差し出す必要がありました。それは私たちの意志、信仰心 です。そうすればイエス様の素晴らしい御業をあなたも見る事が出来るのです。(ヨハネ6:29)またそのことは、あなたの人生にもあらわされます。あなたという存在を用いて主は大きなことを行うことがお出来になるのです。

 

パリサイ人達はイエス様のなさる素晴らしい御業を見るのではなく、律法に沿ってイエス様と弟子たちが歩んでいるかどうか、そのことしか見ていませんでした。宗教上、批判的で少しの間違いも認めないような霊に捕らわれると、それこそが人間にとって祝福とは逆に呪いになってしまう。(Adam Clark

 

もし本当に安息日を破っているイエス様の弟子たちのことを思って、パリサイ人達が懸念していたのであれば、パリサイ人達は助けの手を差し伸べる事も出来たでしょう。例えば、イエス様の弟子たちに食事を与えることもできました。そうしたら、弟子たちも安息日に麦の穂を摘んで食べることも無かったでしょう。しかし、パリサイ人達は人の必要を満たすことより、人々がしている事自体を見、少しでも律法に違反していた場合、それらを徹底的に批判し追及していました。さて、全ての主権が与えられているイエス様はどうだったでしょう。3節から5節「イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、 どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのですか。」このように状況に応じて物事を判断される方である事が分かります。神様は哀れみ深いお方です。神様こそ律法を私たちに与えて下さったお方です。イエス様のお弟子さん達はお腹が空いていたので、律法で認められていた事をしただけでした。

 

l  誰にでも批判的である人は、例え相手がイエス様であっても、批判する点を見つけ出し、批判する事でしょう。

 

l  神様は、他の人を批判するより手を差し伸べて助けてあげることを喜ばれます。

 

安息日に手の萎えた人を癒された 9節から13

 

8節ではイエス様はこのように言われました。「人の子は安息日の主です。」そして、イエス様は安息日に手の萎えた人を癒されました。この手の萎えた人は、神様を礼拝する為に、忠実にこの宮に来ていたのではないでしょうか?パリサイ人達はイエス様を裁くチャンスだと思い、イエス様がこの人を安息日に癒すかどうか見ていました。10節「すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。」そして続けて11節と12節でイエス様はこう言われました。「イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」」確かに、安息日に主を礼拝する事が一番大切です。でも、そのほかにも私たちは沢山良い事を安息日に出来ます。例えば、他の人を助ける事、一人寂しくしている人を訪問する事、病人を訪ねる事、貧しい人を助ける事など色々あります。13節でイエス様がこう言われたように、私たちも周りに手を伸ばし、助けてあげましょう。「それからイエスはその人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。

 

 

 

ゴールデンテキスト           

 

マタイ12章8節「人の子は安息日の主です。