披露宴

今日のたとえ話に出てくる王様は天のお父様に例えられ、結婚する息子はイエス・キリスト、そして、花嫁はきよめられた教会(クリスチャン達)に例えられています。その披露宴に招かれている人達は人の子、全ての人間です。また、しもべ達とは、神の国の福音を宣べ伝えている牧師や宣教師を指しています。

 

マタイ222節から8節「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。

 

招待状 

 

神様が人間を創られたのは、神様と同じように考えを分かち合い、愛を分かち合う事が出来る為だったのではないでしょうか。創世記127節にこうあります。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」神様はきよい心を持った者(花嫁)として私たちを創られました。しかし、神様は私たち人間を創ると同時に、私達に神様に従うか、従わないかの選択肢も与えました。そして、人間は神様に従わない方を選び、そこから私たちの中に罪が入るようになってしまったのです。神様はそこで私たち人間が全て滅びる事がないように、神様の御子、イエス・キリストを罪の贖い主として送って下さり、私たちが救われる道をつくって下さいました。イエス・キリストは花嫁の為に命までも惜しまずに愛して下さったのです。天のお父様、神様は今も変わらない愛を持って、私たちを愛しておられます。また、自分の息子には良い花嫁が来て欲しいと願うように、神様もきよい花嫁を御子の為に求められています。その為、花嫁は愛、忠実さ、信仰、他人への慈愛などがあるか試されます。IIコリント112節ではパウロはこのように言っています。「 私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。

 

コメンテーターのアダム・クラークもマタイ・ヘンリーも言っていますが、最初に招待されたのは少数民族のユダヤ人でした。神様は何回も預言者を遣わしては、メシヤ(救い主)が来るよとユダヤ人たちにお伝えになりました。そして、イエス・キリストはメシヤとしてユダヤ人の中からお生まれになりました。しかし、ユダヤ人達は彼をメシヤだとは認めず、彼を拒みました。ヨハネ111節「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」マタイ227節にはこのようにあります。「 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。」実際にイエス様がこの地上を離れて天に帰られた41年後にローマの総督、テトスによってエルサレムは滅ぼされてしまいましたが、あるコメンテーターは、それは7節で言われている事がもうすでにこの時に成就したのではないかと言っています。

 

しもべ達 

 

マタイ229節と10節「だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。

 

最初に送られたしもべ達は預言者や使徒たちの事です。しかし、招待されていたユダヤ人達が拒んだため、異邦人へと招待枠が広がりました。ローマ1111節「それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。

 

今現在は牧師や宣教師などが、この招待されている全ての人を招くしもべとなっています。この招待状は全ての人に与えられていて、特定された人や国の為ではありません。例え位が高くても低くても、そんなことは関係ありません。全ての人が神の福音を聞いて、信じ、救われる事を神様は望んでおられます。また、悪い人でも、良い人でも、誰でもこの招きに招かれているのです。イエス・キリストは罪人を救う為にこの世に来られ、命さえ惜しまず捧げて下さいました。しかし、今現在の人々も、最初に拒んだユダヤ人達のように、日々の忙しさのあまり、神様が二の次、三の次になってしまっています。ほとんどの人々は神様の国と義を第一にすれば他の必要な物は全て与えられるとイエス様が言われた事を忘れてしまっているようです。その為、必要な物を手に入れる為、皆必死に働いています。

 

全ての人々が神様の招待状を拒んだわけではありません。マタイ2534節「それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。」ここで最後まで耐え忍んだクリスチャン達は神様と共にずっといられるようになるのです。神様からの招待状を受けない人達は決して受け取りたかったけど受け取れなかったのではなく、自分自身受け取らない選択をしたと言う事です。

 

婚礼の礼服 

 

黙示録197節と8節「 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」ヘブル書1214節にはこうあります。「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」ここで言われているきよい者とはどう言う意味でしょうか?それは、きよい心と生き方をしている者達の事です。白い衣とは義や聖徒を象徴しています。きよい人とはイエス・キリストの血潮によりきよめられた人の事です。きよめられる事により、イエス・キリストの花嫁に相応しいものとしていただけるのです。

 

l  今現在、多くの人々はこの素晴らしい福音を軽視して、一番大切なものを見逃してしまっています。

 

相応しくないお客さん

 

マタイ2211節「王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。」披露宴に軽い気持ちで、準備もまともに出来ていない者がいたとあります。彼は確かに福音を聞いていたけれども、心をきよめて頂くのに対して、拒んでいた部分があったのかもしれません。でも、ここで彼自身、自分の行動に対して責任を持たなければなりません。マタイ2212節「王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。」彼自身、自分の過ちに気が付いていたからこそ、ここで何も言い訳が言えなかったのでしょう。もしかしたら、礼服を買うお金がありませんでしたとか言い訳は言えたでしょう。しかし、昔、だいたいの家庭では礼服が必ずあり、お客様用にも用意していた程だったようです。そして、この礼服を拒んで会場に行くと言う事は相手の方に対しての侮辱を意味します。とにかく、彼が礼服を着なかった事に対して言い訳はまったくできなかったようです。

 

または、彼自身、自分なりに綺麗な恰好をしていると思って、そのままの恰好で披露宴に来たのかもしれません。きよい心を求めない人達も同じではないでしょうか?罪から救われているし、これ以上宗教に深入りする必要はないだろうとか言い訳を言っていないでしょうか?やはり、自分が必要かどうかを判断するのではなく、神様が私たちに求めている事を心から求めなければならないのです。イエス・キリストの血潮によってでなければ、私たちは罪から救われないし、聖霊のバプテスマによってでなければ、私たちはきよめられないのです。神様の裁きの日、皆の心の隠れた所が明らかにされる時、神様の恵みを拒み続けた人達は神様に対して言い訳を言う事すらできないでしょう。

 

13節「そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』」彼はまるで極悪人のように捕らえられ、放り出されました。彼にはもう自由も神様の平安も無くってしまったのです。イザヤ書5721節「悪しき者には平安がない。──私の神はそう仰せられる。」彼は光からも、良きクリスチャン仲間からも、イエス様からも引き離され、暗闇に放り出されたのです。その当時、ユダヤ人達の婚礼はだいたい夜行われていて、会場はとっても明るかったようです。その為、いきなり外に出たら、盲目の人のように直ぐには周りが見えない状態だったのです。でも、永遠の滅びの場所、地獄を想像してみて下さい。肉体的にも、霊的にも、精神的にも考えるだけで参ってしまいます。イエス様はこのようにヨハネ12章35節で言われています。「そこで、イエスは彼らに言われた。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。

 

l  人々は神様に近づく事に対して、色々と言い訳を言って拒みます。。しかし、神様の裁きの時、彼らは何も言い訳出来ないでしょう。

 

l  神様の光を拒んだ者は、霊的な暗闇の中に留まる事になります。

 

多くの者が招かれるが、選ばれる者は少ない

 

14節「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」神様は今も牧師や宣教師、または、聖霊によって皆を招いておられます。また、神様は状況や環境を用いてもあなたを招かれるかもしれません。中にはクリスチャンのお友達を通して神様を見出す人もいます。ヨハネ19節「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」テトス214節にもこうあります。「キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。」神様は今も全ての人を招いておられます。そして、人間は自分が判断する選択により、将来の行き先を決めているのです。また、ある者はせっかく光を見出したのに、神様が望まれている事をしようとしません。例えば、心から悔い改めない、光の内に歩まない、聖霊様が心に宿っていないなどなどあります。ヨハネ831節「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」ローマ1122節「ですから見なさい、神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上にあるのは厳しさですが、あなたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り取られます。」ただ、常に忠実で罪から解放され、聖霊様により聖い考え、行動、言動をし続ける者だけが神様の御心に沿って歩んでいると言う事になるのです。ルカ1324節と25節「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってから、あなたがたが外に立って戸をたたき始め、『ご主人様、開けてください』と言っても、主人は、『おまえたちがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。」私たちの魂の状態は今どうでしょう?神様の御心のただ中にいるでしょうか?

 

l  マタイ713節と14節「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。

 

 

 

ゴールデンテキスト           

 

マタイ22章4節「それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』