ピリピの教会が出来たのは、パウロの第二伝道の時の事でした。ピリピの最初の教会には救われた占いの女や牢屋の監視員、また、彼の家族もいました。彼らはパウロの事を本当に慕っていて、パウロがいない時も、教会の管理を忠実にこなしていました。このピリピ書を書いた時も、パウロは牢獄の中にいて、ピリピの兄弟姉妹とは一緒にいませんでした。パウロは牢の中から彼らに手紙を書いたのですが、パウロ自身の苦しい状況の事を書いて祈ってもらおうというのでなく、それよりも、神様と共に歩む喜びの事を沢山書いています。今日はここから何が学べるかを見て見ようと思います。
愛する兄弟姉妹達 3節から8節
3節にはこうあります。「私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。」この言葉にはパウロの喜びが滲み出ていると思います。ピリピ教会の兄弟姉妹の忠実さ、また、彼らの信仰の成長、それだけでなく、周りに対して良き証をたてている彼らの姿について聞いて、パウロは本当に嬉しかったのでしょう。あなたの牧師が皆の信仰の成長について神様に感謝している姿を想像してみてください。どうでしょうか? 教会が祝されていると言えるのではないでしょうか。
4節にも続けてこうあります。「あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、」パウロの置かれている状況は大変でしたが、信仰的に急成長を遂げている兄弟姉妹の事を考えるのがパウロの唯一の楽しみだったのでしょう。私たちはどうでしょうか?苦しい時、大変な時、パウロみたいに、周りの人々が神様と喜んで歩んでいると聞く事で、悪い状況の中でもオアシスを見出す事が出来るでしょうか?5節「あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。」
6節「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」パウロは、ピリピの兄弟姉妹が福音を聞いた最初からずっと神様にどんどん近づこうとしている姿を見ていたので、彼らならイエス・キリストが来られる日まで、良き働きを全うしてくれると信じていたのです。もちろん、ここまで彼らが成長出来たのは、神様の助けと導きがあったからです。私たちもイエス・キリストが再臨される時まで、信仰を成長させ、周りにも良き証を立て、最後の最後まで頑張ろうではありませんか。パウロは自分自身を守るよりも、周りに福音を宣べ伝える事を喜びとしていました。ピリピの兄弟姉妹もそのようなパウロと同じ考えを持ち、周りに一人でも滅びの道へと歩んでいる人を見たら、彼らを神様へと導こうとしていました。7節「あなたがたすべてについて、私がこのように考えるのは正しいことです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人たちであり、そのようなあなたがたを私は心に留めているからです。」
l 周りの状況に関係なく御霊の実を実らせることができます。喜びは心の状態であり、周りの状況に左右されず、どんな時にも心の中に喜びを保つ事が出来ます。
l あなたの牧師はあなたの生き方により喜びを得て、神様に感謝していると思いますか?
パウロの祈り 9節から11節
9節から3節程パウロの祈りの内容が書かれてあります。「 私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、」パウロの祈りは、兄弟姉妹一人一人が神様と共に歩み、成長し、それにより、兄弟姉妹がお互いに愛し合い、他の人々にも愛を持って接する事が出来るようになるように望んでいました。その愛こそ、ただの感情的な愛ではなく、知識とあらゆる識別力によって育まれた本当の愛です。
10節には続けてこうあります。「あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、」私達には日々選択しなければならない事があります。何に価値があり、何に価値が無いのか、また、何が正しい選択で、何が正しくない選択なのか。私たちクリスチャンにとって一番大切なものは何か。パウロは、それを見出して欲しいからこそ、このような祈りを日々兄弟姉妹の為にしていたのです。私たちは日ごろからぎりぎりのラインの所をさ迷っていないでしょうか?大切な事をはっきり見分け、白黒はっきりつけて、神様の喜ばれる側を日々選び取ろうではありませんか。兄弟姉妹一人一人がだれにも非難されない歩みをし、何時でも誰に対しても良き証を立てる事が神様の喜ばれる歩みであり、私たちに臨まれている事ではないでしょうか。キリストが来られるその日まで表裏のない歩みをしましょう。
パウロの最後の祈りは11節にあります。「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。」キリストこそ私たちの命の源であり、命そのものです。ヨハネ15章にあるように、キリストはぶどうの木であり私たちは枝です。枝にしか実を実らせる事が出来ません。しかし、木無しの枝だけでは実を成らせる事は不可能です。木の葉っぱは光合成をして木に栄養を返します。同じように、私たちはキリストにしっかりと繋がり、実を実らせ、それにより、神様にご栄光を返す、これこそ神様が私達に臨まれている事です。マタイ5章16節にはこうあります。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」
l I コリント6章12節「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません。」
福音を宣べ伝える 12節と18節
ピリピの兄弟姉妹は、パウロがローマで置かれている立場、また、状況を危惧し、心配していました。伝道者パウロが牢屋に入れられていると言う事は、神様の福音を宣べ伝える事に対して不利な点しか思いつかないかもしれません。しかし、パウロは兄弟姉妹に彼自身の事で心配して欲しいと望んでいませんでした。パウロは全てにおいて、良い事も悪い事も、神様がご支配していることを知っていたからです。全てを神様にお任せしていました。パウロは手紙の中で自分の苦しみの事はあまり詳しく書いていません。しかし、苦しみの中にあっても福音を宣べ伝えれている事、また、神様のご奉仕が継続されている事を証しています。彼の証の中で、不利な点としか見られない事も神様の御手により、有利な点に変えられている事実が述べられています。パウロを監視していた監視役にも良き証が立てられ、その結果、ローマの中心部で真の神様の事が宣べ伝えられて行きました。神様は囚人であるパウロを通して、ローマにも福音を宣べ伝えられるようにされていたのです。ピリピ4章22節を読んで見ると、皇帝カエサルの家族の者の中でクリスチャンになった人がいたとあります。「 すべての聖徒たち、特にカエサルの家に属する人たちが、よろしくと言っています。」パウロを通して福音が宣べ伝えられていただけでなく、パウロが示す良き模範を通して多くの人が真の神様を見い出す事が出来ました。12節から14節「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。」
l Iペテロ4章16節「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。」
クリスチャンと言っている人の中には、パウロの事を良く思っていなかった人々もいました。ある人はパウロの成功を見て嫉妬していました。また、今パウロは牢屋にいて出て来られないから、今のうちに多くの人々をクリスチャンに導いて自分が指導権を握ろうと考えた人もいたようです。しかし、神様は人々の心を見られます。本物の信仰者を祝福されます。15節から18節。「人々の中には、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からする者もいます。 ある人たちは、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが、ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです。これからも喜ぶでしょう。」
l もし他の人の成功に対して嫉妬が起きるなら、あなたに問題があるのではないでしょうか?
l ヨハネのバプテスマもイエス様より先に福音を宣べ伝え、年上でもありました。しかし、イエス様が伝道し始めた時、自分は衰えていき皆イエス様について行くべきであると考えました。ヨハネは自分の事より神様にご栄光を返す事を重視していました。
ゴールデンテキスト
ピリピ書1章3節「私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。」