申命記33章にはイスラエルの部族に対するモーセの最後の言葉が書かれています。その後、モーセは32章48節から52節にあるように山に登り、その生涯を終わらせました。*申命記の最後の章34章は、申命記にありますが、実際のヘブル語で書かれた巻物ではヨシュア記の最初に記されてあるようです。
主から見た視点 1節から4節
モーセとアロンはメリバの水を出す所で神様の喜ばれない事をしてしまいました。その為、彼ら自身、民を率いて約束の地に入る事は出来ませんでした。1節「そして【主】は彼に言われた。「わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに『あなたの子孫に与える』と誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたがそこへ渡って行くことはできない。」アロンはホル山の上で生涯を終わらせました。モーセ達は最後まで民達を率いて目的地に入ることは出来ませんでしたが、決して神様から見放されたわけではありません。モーセが山に登るように神様から言われた時も、神様は彼と共に今まで通り、一緒に登って下さいました。モーセがネボ山を登り切った時、神様は民達に約束されていたカナンの地を彼に見せました。神様のあわれみは十分彼の上にあったと言う事です。
モーセは民達が引き継ごうとしている美しいカナンの土地を見る事が出来、本当に嬉しかったことでしょう。40年もの間、イスラエルの民達を率いて目指して来た土地です。民達の指導者として、確かにモーセは大変な所を沢山通りました。民達との間で思い違いがあったり、がっかりさせられた事も沢山あったでしょう。しかし、その中でも、皆の上に神様のあわれみがあり、日々神様に導かれて、沢山恵みと奇跡を見て来ました。
l ローマ8章18節「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」
人の死 5節から9節
モーセは5節にあるように「【主】のしもべ」として歩みました。彼は主の指示に従い、イスラエルの民達を奴隷の立場から解放し、荒野へと導きました。モーセはもちろん神様に対して忠実でありましたが、同じように、民達に対しても忠実でした。そしてこの時、モーセに任されていた責任を彼から取り除き、彼を解放する時が来たのです。ジョン ウェスレーは、このように言っています。「神のしもべにも死ぬ時が来ます。他の者も神のしもべとして神に仕えるチャンスが与えられる為です」5節「こうしてその場所で、【主】のしもべモーセは【主】の命によりモアブの地で死んだ。」7節では、モーセは120年間の生涯を終わらせたとあります。モーセは40年間エジプトの王子として暮らし、ミデアンの地で40年間暮らし、そして、最後の40年間はイスラエルの民達の指導者として務め、息絶えました。彼は年を取っていましたが、7節に「彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」とあります。モーセの生涯は神様のみ手の中にあり、目立った大きな病気もなく、祝福された人生を送ったという事になります。歴史的にも、聖書の中でも、モーセだけが主によって葬られたとあります。6節「主は彼を、ベテ・ペオルの向かいにあるモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知る者はいない。」モーセは偶像礼拝を嫌っていました。主ご自身がモーセを葬った理由はおそらく、モーセが偶像礼拝対象にならない為だったかもしれません。8節では民達がモーセの死を悲しんだとあります。「イスラエルの子らはモアブの草原で三十日間、モーセのために泣き悲しんだ。こうして、モーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。」普通、ヘブル人の習慣では、誰かが亡くなると、7日間悲しむ喪の期間があったようですが、モーセの場合30日もの間、民達は悲しんだようです。民達にとって、モーセの存在は大きく、ただのリーダーではなく、霊的な父として慕っていたのでしょう。時々私たちはある人が死ぬまで、その人の存在の大切さに気が付かないことがあると思いますが、まさしく、モーセに対してもそのような状態だったのではないでしょうか?しかし、30日後、民達は自分の足で立ち上がり、前に進んでいかなければなりませんでした。神様はモーセに替わる者をもうすでに備えておられました。それはヨシュアです。彼らはここから約束の地を得て行くために、戦って行く必要がありました。I テサロニケ4章13節にはこうあります。「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。」私たちが人の死を悲しむ事は悪い事ではありませんが、ずっと悲しんで前に進めなくなるのは良い事ではありません。私たちにはずっと悲しんでいる余裕はなく、日々の霊的な戦いに勝利する為にも、神様と前進して行く必要があるのです。私たち人間には必ずと言ってもいい程変化が訪れます。ここからは、民達の新たな歩みが始まりました。9節「ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満たされていた。モーセがかつて彼の上にその手を置いたからである。イスラエルの子らは彼に聞き従い、【主】がモーセに命じられたとおりに行った。」ヨシュアはモーセのように神様に仕えた預言者ではありませんでした。しかし、ヨシュアは軍の指揮官として、民達を率いるのに適した人でした。また、モーセのように、ヨシュアも神様から指示を受け、人々を導いて行ったのです。10節「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼は、【主】が顔と顔を合わせて選び出したのであった。」
l リーダは変わるが、神は変わらす、神のなさる事も継続されて行く。
10節に「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。」とあります。これは、イエス・キリストがこの世に来られるまで変わりませんでした。モーセは忠実なしもべでしたが、イエス・キリストは神の子としてこの世に来られました。ヘブル書を書いた著者もイエス・キリストはモーセより優っていたと言っています。モーセを通して神様は民達に律法を与え、民達を神に仕える国民として組織化しました。長い間、イスラエルの民達はモーセによって与えられた律法に沿って歩んで来ました。モーセは民達と神様との間で仲裁者として働き、そして古い契約が結ばれました。しかし、その後モーセより優ったイエス・キリストがこの世に来られ、私たちと神様との間に新たな契約を結び、新たな仲裁者となって下さいました。
主なる神様は、モーセと顔を合わせて話せるほどお互い近い存在でした。モーセ以外の預言者でここまで神様と親しい交わりを持った者はいません。モーセは神様の力によって多くの不思議な業を行ってきました。モーセは確かに歴史的にもすごい人でした。しかし、モーセは最後まで民達をカナンの地へ導き入れる事は出来ませんでした。カナンの付近までは連れて来る事ができましたが、残念ながらそこまででした。ここから分かるように、律法は私たちを天国の近くまで導く事が出来るかもしれませんが、天国の中まで導き入れる事は出来ません。ヘブル書7章19節にこうあります。「律法は何も全うしなかったのです──もう一方では、もっとすぐれた希望が導き入れられました。これによって私たちは神に近づくのです。」このように、律法では出来なかった事をイエス・キリストが私たちの為にして下さったのです。律法は私たちが罪人だと気付かせ、悔い改めまでは導き入れる事が出来ますが、その後は、イエス・キリストのあわれみによらなければ、私たちは天の御国にたどり着く事は出来ないのです。
l 黙示録15章3節「彼らは神のしもべモーセの歌と子羊の歌を歌った。「主よ、全能者なる神よ。あなたのみわざは偉大で、驚くべきものです。諸国の民の王よ。あなたの道は正しく真実です。」
ゴールデンテキスト
ヨハネ1章17節「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」