神様の戒めとは、私達に対する神様の愛だと言われています。モーセの十戒は私達人間が守る事で、正しい考え方を維持する事が出来、それによって良い暮らしを送れるメリットになるとあります。イスラエルの民達にとっても、38年間の荒野暮らしに終止符を打つ事が出来、約束された地へと進む為にも、神様の律法に聞き従う必要性がありました。その為、神様はモーセの十戒を民達に掲示されたのです。
神様に対する義務 6節から15節
神様がイスラエルの民達をエジプトから助け出した事により、神様の素晴らしい力が民達の上に示されました。その為、助け出された民達は、神様に対して大きな借りが出来ました。6節には「あなたの神、【主】である。」とあります。神様は私達を造られた神様であり、支配者です。民達に律法を示すのにふさわしい方なのです。
一つ目の戒めは7節「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」とあります。私達の本当の支配者はただお一人、神様だけです。この神様より立場の高い方は存在しません。一つ目の教えから、神様は私達が無意味な事をしないように、本当の神様は誰か明確にしてくださっているのです。
二つ目の教えは8節「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」とあります。民達はどんな形の物も作って拝んではいけないと8節の続きにあります。例え、天の物でも、地の物でも、また、水の中にある物でも拝む対象にしてはいけないのです。ここでは決して私達が何かの作品を作ってはいけないと言っているのではありません。ただ、私達が拝む対象として作ってはいけないと言う事です。また、もちろん私達は他の人間や動物達を拝む対象にしてもいけません。その理由は、神様だけが唯一礼拝されるべき方だからです。
親は子供達に大きな影響をもたらします。神様によって祝福された親は、その祝福を子へと受け継がせる事が出来るでしょう。しかし、悪い習慣を持った親は、悪い習慣を子に受け継がせる事になってしまうでしょう。そして、そのままだと、その後、親も子も神様に罰せられてしまうのです。しかし、その中でも神様を求める人を、神様は憐れんで下さり、罪の鎖から解放して下さいます。神様の愛は全ての人に対して等しく、公平に、神様を求める人や愛する人、また、律法を守る人に及ぶのです。
3つ目の戒めは11節「あなたは、あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない。」とあります。エホバの名を唱える場合、2つのパターンしかないでしょう。それは神様を尊敬する時、またはその逆の時です。人がクリスチャンになる時、私達はキリストの名を背負って歩み始めます。その為、正しい歩みをしないでクリスチャンとして歩むならば、神様の名を汚す事になってしまいます。また、ただ無意味に神様の名を口から出す事は、神様を冒涜する事になってしまいます。IIテモテ2章19節「それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」」
4つ目の戒めは12節「安息日を守って、これを聖なる日とせよ。」です。多くの人々はこの戒めを守る事が出来ていません。出エジプト記20章8節では、あえてこのように書かれてあります。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」週7日間の内一日は安息日と定められていますが、これは神様がこの地球を造られた時に定められました。イスラエルの民達が約束の地に入るに当たって、神様はイスラエルの民達にどのように安息日を守るべきかをもう一度教えられたのです。この安息日を人間が守る事によって、体を休める事が出来、健康を維持できるのです。イエス様もこの地上におられた時、マルコ2章27節でこのように言っています。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」
人間に対する義務 16節から21節
16節「あなたの父と母を敬え。」親の愛によって、人を愛する大切さ、敬う大切さ、そして従う大切さを、子共達は学ぶ必要性があります。親とは子共達にとって、ある程度の年までは、神様の代わりになるような存在です。そして、親に従うべき大切さを学んだ子供達は、大きくなってもの会社の上司や神様に従う事が出来るでしょう。親に従い、敬う子供達は、神様からも祝福を受ける事が出来るでしょう。パウロもエペソ6章1節から3節でこのように言っています。「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。」
聖い神様に仕える私達は、他の人に対しても、良い行いで、神様を指し示す必要性があります。6つ目の戒めは17節「殺してはならない。」とあります。聖書では、人に対して殺意を持つだけでも、殺したと同じ罪になるとあります。罪が心に入ると、とても恐ろしい状態になってしまうのです。また、他の人に対して殺意を持ってしまうと、周りの人からも嫌われる存在になってしまうかもしれません。悪循環が悪循環を生み、最後には最悪な結果を招く可能性もあるのです。
7つ目の戒めは18節「姦淫してはならない。」とあります。姦淫とは、既婚者にとっては、お互いのパートナーに対しての裏切り行為になります。最近の性問題は、霊的堕落が関係していると指摘されています。多くの人々は神様から離れ、堕落した状態になっているからです。イエス様も頭の中で性的な事を考えるのも罪だと、マタイ5章28節で言っています。「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」
8つ目の戒めは19節「盗んではならない。」とあります。これには、他人が大事に持っているお金や、物、時間、そしてサポートなどを上げる事が出来るでしょう。自己中心的な親は子供達に必要な物を与えず、大変な状態になっている家庭がこの日本でも存在するようです。それらは、その子供達から大切な時を奪い去ってしまう「盗み」と同じ罪になるのです。また、働いている時に、儲けを重視し、お客様を騙す事も同じ「盗み」の罪になります。そして、実際、この世の全ては、神様がそれぞれの人に任せている物と言えます。その為、それらを盗むとは、神様が誰かに任せた物を取ったと言う事になります。
9つ目の戒めは20節「あなたの隣人に対し、偽証してはならない。」とあります。パウロもエペソ4章25節でこのように言っています。「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」肉の欲の特性はずる賢い性質を持っています。いつも隣人に対して正直であるべきです。
最後の戒めは心の問題に対してです。21節「あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」隣人の財産を欲しがることは、今自分に与えられている物に満足していないと言う事になります。パウロはピリピ4章11節でこのように言っています。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」やはり、私達は今神様に与えられている物を感謝する事が大切なのです。
ゴールデンテキスト
I ヨハネ5章3節
「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」