聖書を読んで見ると、パウロがコロサイと言う町行ったとはどこにも書かれてありません。しかし、パウロがエペソで伝道している時、福音はどんどんと色々な所で広がり、アジアの方まで届いて行きました。その福音を広げるのに貢献していた一人がエパフラスと言う人でした。彼はコロサイ出身で、コロサイで伝道師として働いていました。先週学んだピレモンと彼の家族もピレモンの家でエパフラスを中心として集まり、集会を守っていました。

 

しかし、その頃、間違った教えも同時に広まり、色々な所に小さな集まりが存在していたようです。その為、パウロはそれぞれの所で集まって集会をする事に対して懸念をいだいていました。その集まり(教会)はパウロが始めたものではなかったと言うのもありますが、その中で一番パウロが懸念をいだいていた教えは、グノーシス主義と言う教えです。この教えでは、神様がこの世界を造ったのではないと言い、天使も拝む対象だと教えていました。また、救い主として来られたイエス様も実は人間の体を持っていなかったと教えていました。これらの正しくない教えによって、多くのクリスチャン達がさ迷い、神様から離れてしまいました。その為、それらの教えのどこが間違っているかを、パウロが、手紙を通して教えたのが今日の学びの所、コロサイ人への手紙です。一緒に学んで見ましょう。

 

 パウロの祈り 9節と11

 

グノーシス主義の教えに従っていた人々は三つのグループに分ける事が出来ました。まず一つ目のグループは霊的エリートクラスで、彼らは神様からの啓示や知恵があったと言っていました。また、二つ目のグループはただその教えを信じている人々です。三つ目のグループは一つ目と二つ目の人々に仕える奴隷のような人々です。このような間違った教えに惑わされないように、パウロはクリスチャン達の為にいつも祈り支えていました。9節「 こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。

 

神様はこのようなグループ分けを教会に求めていません。クリスチャン達は一つであり、一つの体に属しています。それは、キリストの体です。10節「また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。」神様が私たちに何を求めているかを私たちが分かる為には、神様の助け「あらゆる霊的な知恵と理解力」が必要です。ヨハネ717節「だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。」私たちクリスチャンがクリスチャンとして全ての人を喜ばす事は出来ないかもしれません、しかし、主に喜ばれる歩みを絶えず歩む事なら神様の助けによって可能です。11節「神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。」私たちクリスチャンは自分の力だけでクリスチャンとして歩む事は難しいでしょう。しかし、神様のあらゆる力に強められて歩む事は出来ます。エペソ316節「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。」私たちが常に神様を喜ばせる歩みをする為には、聖霊様の助けが必要です。

 

l  神様は私たちが何を信じるべきかを教えて下さるだけでなく、何をするべきかも教えて下さいます。

 

l  パウロは「私が弱い時こそ、私は強いからです。」と言っていますが、私たちが弱い時こそ、私たちは自然と神様に頼ります。すると、神様によって私たちは強くなれるのです。

 

パウロの感謝 12節から14

 

私たちの神様への祈りの中には感謝がありますか?神様こそ、私たちが感謝するのに値する方です。12節「また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」ここで言われている「あずかる資格」とは少しずつ与えられるのではなく、神様はすぐにでも私たちに与える事がお出来になります。神様からの十分な恵みにより、私たちは神様にふさわしい者とされるのです。神様からの恵みとは、私たちを罪から解放し、私たち贖って下さった事です。

 

I ペテロ29節にこのようにあります。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」パウロが感謝していたのはここで言われている解放の事です。私たちが暗闇の力によって支配されていた時、私たちは捕虜とされていたのです。私たちは罪の奴隷であり、その時は私たちの頭は間違った情報により、曇った状態だったのではないでしょうか?しかし、13節にあるように、このように私たちを救い出して下さいました。「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」罪の中にいた時は悲しみ、苦しみの中にいたかもしれませんが、今はホーリネスの中、神様からの知恵、また、喜びに満たされて歩めるようになりました。14節「この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」この赦しを得ているという事は、今までの罪は全てないものとされたと言う事です。私たちは完全に自由を得た、イエス様が私たちの為に全てを支払って下さったからです。感謝します。

 

キリスト、この方こそ、造り主  15節から17

 

グノーシス主義の教えの中に、この世界は神様より立場が低い者が造ったと教えられていた事について考えて見たいと思います。15節「御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。」この言葉「かたち」は、「似姿」を意味します。ヨハネ1419節にはこのようにあります。「イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」イエス様は神様であり、イエス様は肉の体を持った方と言う事です。神様は見えませんが、イエス様により見えるようになったのです。イエス様は神様より低い立場の方ではありません。同等です。

 

イエス・キリストこそ、この世界の造り主です。16節「なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。16節では「造られた」と言う言葉が二回繰り返し使われています。一回目の「造られた」はもう既に終わった、過去形で表されています。二つ目の「造られた」は完了形で表されています。ある子供がボートを作ったとします。そして、その子はその船を水の上に浮かばせて浮いたら、とても喜ぶ事でしょう。このボートはこの子によって作られたのであり、この子の為に作られたと私たちは理解できます。同じようにこの世界もキリストによって造られ、キリストの為に造られたと言えます。

 

17節「御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。」キリストは造られた者ではありません。全ての前に存在していました。そして、万物はキリストにあって成り立っているのです。キリスト無しにはこの万物は成り立たないと言う事が出来ます。今も忠実に太陽が昇り、雨が降り、地球が回っているのも、全てイエス・キリストが存在し、支配されているからです。使徒1728節「『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです。

 

キリストこそ、和解を成立させてくださる方

 

先週も言いましたが、キリストは頭であり、私たちは体のパーツです。頭から指令が下されると、体はその通り動かなければいけません。教会もイエス・キリストにより起動しているのであり、教会はキリストの目的を達成する為にあります。キリストこそこの世の始めでした。全ての始めだったのです。18節「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。」ここで「第一の者」とありますが、どの天使も人間もこの立場に立つことは出来ません。悪魔も「第一の者」を目指し、天国から追放されてしまいました。

 

19節「なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、」とありますが、この「満ち満ちた」と言う言葉は、完全な神徳を意味します。神様はその全てを御子イエス・キリストに宿らせたのです。他の天使でもなく、人間にでもなくです。キリストこそ、全ての源であり、イエス・キリストを通してでなければ、本当の命の意味を見出す事は難しいでしょう。ヨハネ116節「 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」イエス・キリストこそ、罪深い私たち人間と神様の間に平和を持って立ち、和解をさせてくださったお方なのです。その結果、私たちは神様の所へと、イエス・キリストを通して直接行く事が出来るようになったのです。20節「その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。21節「あなたがたも、かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、22節「今は、神が御子の肉のからだにおいて、その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。あなたがたを聖なる者、傷のない者、責められるところのない者として御前に立たせるためです。

 

l  エペソ527節「ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

 

ゴールデンテキスト            コロサイ118節「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。