今日はイエス様の死について学びますが、これこそが私たち人間に、歴史上素晴らしいい結果をもたらしてくれました。イエス様は私たちの罪のための生贄となり、私たちが受けるはずの神様の裁きを代わりに受けてくださいました。その結果、私たちは神様から義と認められる者とさせて頂いたのです。
イエス様は石うちの刑より、生きたまま焼かれる刑より残酷な十字架刑により、処刑されました。十字架刑は皆の前で辱めを受け、苦しむ時間も長い刑です。色々と調べて見ると、どの死刑のやり方より残酷な刑だと言う事が分かります。しかし、これはこの世界が出来る前から神様によって定められていた事です。神様の罪に対する怒りは激しく、罪の赦しのためにはこれほどのことが必要だったのです。また、十字架刑とは、ローマでも最悪な刑の一つであり、反抗し、最悪な罪を犯した人にだけ執行される刑でした。十字架刑に処されている人は血だらけになり、それを狙う鳥やハエがたかり、そのままだと、鳥などの餌食となるのです。自分自身をまったく守る事が出来ないのです。そのような中でも、イエス様は皆の為に祈られました。ここからもイエス様の私たちに対する愛が感じられます。
勝利されたイエス様 45節から50節
イエス様は朝の9時に十字架にかかり、昼過ぎの3時に亡くなりました。昼12時頃から3時までは辺りは夜のように暗くなりましたが、この出来事について人間はまだ解明出来ていません。ある人は日食がそのような暗闇を作ったのではないかと言っていますが、別の人は4月には東側で満月が見られ、太陽は西側にあるので、それはあり得ないと言っています。
3時間闇が全地を覆っていた時、イエス様は暗闇の力と戦っていました。そして、イエス様は全ての悪の力に打ち勝ったのです。この3時間の間に、イエス様が何を言われたかは聖書に何も記されていません。おそらく、イエス様は天のお父様の人間の罪に対する怒りを感じて、苦しんでおられたのではないでしょうか。46節にはびっくりする言葉が記されています。「 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」イエス様は全ての人間の罪を背負い、身代わりとなって死んで下さったのです。全ての人の罪、それには私たちの罪も含まれています。天の父なる神様の一人子であるイエス様に、全ての人間の罪の罰を受けさせたのです。その罪はあまりにも大きく、天のお父様もそのようなわが子の姿を見る事が出来ませんでした。イエス様が私たちの罪を全部背負って、その罰を代わりに受けている、天の父なる神様は背を向けておられました。どんなに苦しかった事でしょう。この事は人間の頭では全てを理解出来ません。でも神様はそこまでするほどに、私たち人間を愛して下さったのです。I ヨハネ4章10節「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
マタイ27章50節やマルコ15章37節にはイエス様が十字架上で言われた言葉が記されています。イエス様の最後の言葉は、その周りにいた人々に強い印象を残しました。ヨハネ19章30節「イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。」この「完了した」と言う言葉をアラブの言葉にするとTetelestaiとなりますが、これを訳すと、「タスクを全うした」また、「問題に勝利した」と言う意味があるそうです。その為、これは勝利者の叫ぶ言葉と理解する事が出来、イエス様こそ勝利者と言う事が分かります。
私たちも時々、神様が近くにいないように感じる時があると思います。しかし、どんな時でも神様に信頼を置くならば、必ず夜明けが来ます。もし私たちが日頃から神様に信頼し、神様に対して忠実であるならば、イエス様のように、私たちも常に勝利を治める事が出来るでしょう。勝利者とは、例え神様に忘れられた良いに思っても、神様に信頼し続けることができる人、また、どう見ても神様に見捨てられたと言う状況下にあっても、神様を信じる通す事が出来る人の事です。人間に侮辱され、たたかれ、血だらけになっても、イエス様は父なる神様から目を離しませんでした。イエス様は私たちが通った事もないような苦しみを受けられたのですから、イエス様が私たちの気持ちを理解できないはずがありません。
l Iコリント4章10節「私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いのですが、あなたがたは強いのです。あなたがたは尊ばれていますが、私たちは卑しめられています。」
驚くべき真実 51節から56節
イエス様が「完了した」と言われた丁度その時、神殿の幕が真っ二つに裂けました。また、丁度その時、神殿では夜の生贄が捧げられようとしていました。想像してみて下さい。大祭司や祭司たちがいつも通り、聖堂に入り、儀式をしようとしていた時、いきなり地震が起こり、神殿の幕が真っ二つに裂けたのです。イエス様の死により、神様と人間との間に新しい契約が結ばれたのです。イエス様ご自信、大祭司として、動物の血ではなく、ご自身の血を私たち人間の罪の為に流して下さったのです。それは、全ての人間の罪に対する贖いの為でした。私たちの罰を全て受けて下さったのです。
今はイエス様を通して、私たちは直接神様の所に行く事が出来るようになりました。私たちの罪がイエス様によって贖われたからです。イエス様が死んで、よみがえられた事により、イエス様は死に打ち勝ったと言う事が分かります。その為、もう私たちは死を恐れる必要はないのです。イエス様が命と死の鍵を持たれているからです。また、イエス様がよみがえられた事により、イエス様こそ約束されていたメシア、キリストだと明言する事が出来ます。54節「百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」」弟子のヨハネを除いて他の弟子たちは皆イエス様から逃げていました。しかし、女性たちはずっと近くにいたようです。でも、あまりにもイエス様の母マリアがイエス様の苦しむ姿を見て苦しんでいたので、ヨハネはイエス様の母マリアを自分の家に連れて帰りました。どうして女性たちがイエス様の近くにいても何も言われなかったのかは分かりませんが、ある人はこのように言っています。その当時、女性の立場は低かったので、弟子であっても咎められなかった。その為、彼女たちはイエス様のそばにずっといられたのではないか。または、彼女たちはイエス様の事がとにかく大好きで、周りの目を気にすることもなく、ただただイエス様のそばにいたのかもしれません。
l ユダヤ教は真実を隠し、ユダヤ人達を惑わし、その為に彼らは真実を知る事が出来なかった。
ヨセフの不思議な贈り物 57節から61節
ローマの法律によると、犯罪人の死んだ体を引き取ることは、その犯罪人の親戚にしか出来なかったようです。もし誰も体を引き取りに来なかったら、十字架上で腐り、動物達の餌食となってしまうそうです。イエス様はガリラヤの出身だったので、誰もエルサレムにお墓を持っていませんでした。その為、体を引き取る事は難題だったようです。ある人はアリマタヤのヨセフはイエスの母、マリアの叔父に当たる人ではないかと言っています。とにかく、彼はイエス様に自分のお墓を譲った事により、聖書の中でも言い伝えられています。でも不思議な事にアリマタヤのヨセフはイエス様が伝道している間、イエス様をサポートしていたとはどこにも記されていません。彼はサンヒドリン、ローマ帝国下のユダヤにおける最高裁判権を持った宗教的、また、政治的自治組織に属していて、彼は良い人ではあったとあります。ルカ23章50節「さて、ここにヨセフという人がいたが、議員の一人で、善良で正しい人であった。」イエス様の弟子たちは他のユダヤ人が怖くて逃げていたのに、このヨセフはそうではなかったようです。最後の最後にヨセフは勇気を出して、イエス様の為に尽そうと思ったのでしょう。彼はピラトのところに行き、イエス様の体を引き取りたいと願い出ました。そして、許可を得、イエス様の体をお墓に納めました。その後、ユダヤ人達はピラトの元に行き、お墓を三日間、兵士に守らせるようにお願いしました。イエス様の弟子たちがイエス様の体を盗んで、よみがえったなどと嘘をついてはいけないと考えたからです。
ゴールデンテキスト
マタイ27章46節「 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」