個人的な利益 1節から5

 

多くの人々は、神様が実在する理由として、私達人間の問題を解決する方、そして、私達を幸せにして下さる方と思い込んでいます。しかし、実際はその逆です。黙示録4章11節にはこうあります。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」この103篇を書いた著者(ダビデ)も心から主をほめたたえる気持ちを最初から表しています。「わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。」ダビデの中では、「神様を喜ばしたい」と言う気持ちがあったようです。神様は、私達人間が神様と共に歩み、神様をほめたたえ、敬って、そして、感謝を捧げる事を喜んで下さいます。しかし、外見だけでなく、心からの言葉と行いによらなければ意味のないものになります。それは、神様は私達の心を見られるからです。神様はイスラエルの民の言動を喜ばれなかったとマルコ7章6節にあります。「イエスは彼らに言われた。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」私達は日頃から神様を喜ばせる事を考えたり、思ったり、願ったりしているでしょうか?申命記6章5節にはこうあります。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。

 

皆さんは最近少し立ち止まって、神様からの恵や祝福を数えましたか?今日の詩篇でも、著者は神様から頂いた恵を思い出して、その事を忘れてはいけないと2節で言っています。「わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」イスラエルの民の問題の一つは、直ぐに神様からの恵を忘れる事だったと詩篇10613節にあります。「しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。」彼らがみわざを忘れた結果、神様に対する不従順に繋がってしまいました。今日の3節から5節でダビデは彼自身、神様から頂いた個人的特権をいくつかあげています。3節で「主は、あなたのすべての咎を赦し、」と、まず、ダビデは神様に罪の咎を赦して頂いた事を感謝しています。彼の魂は、神様をほめたたえる事を抑える事が出来ませんでした。神様は私達の罪を見て見ぬふりをするのではなく、求める者の罪を赦すと言って下さるのです。そして、続けて彼は「あなたの全ての病をいやし、」と言っています。神様には病気を癒す事もお出来になりますが、それよりも素晴らしい事は、私達を罪からお救いなる事でしょう。神様は哀れみ深い裁判官のようで、私達の罪を無条件で赦して下さるお方です。ローマ623節にはこうあります。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」私達は神様から永遠に引き離されてしまう者でしたが、イエス・キリストが十字架で死に打ち勝った事により、イエス・キリストを通して、永遠の命を得る事が出来るようになったのです。感謝します。

 

詩篇107篇9節にはこうあります。「まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。」神様と共に歩むことにより、私達は全てにおいて満ち足りる事が出来ます。水が私達の乾いた体に潤いをもたらすように、神様は私達の魂に潤いをもたらしてくださるのです。私達は罪の中にいた時、この世の物で心の乾きを潤そうとしていたと思います。しかし、実際は一時的な解決だけで、やはり、神様の恵よってでなければ、本当の潤いはもたらせられません。それもそう、私達の心は神様の領域であり、この心を満たす事が出来るのは神様だけなのです。

 

l  IIコリントの手紙4章16節「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

 

 

 

 

 

神様の明白なやり方 6節から9節

 

ダビデは神様がしてくださった事を思い返した後、今度は神様がどんな方かを6節から言い表しています。「【主】はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行われる。」神様は全てを完璧にこなして下さいます。アブラハムもこのように創世記1825節で祈っています。「正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」また、神様は貧しい者、未亡人、父親のいない者達の事も気にかけて下さっています。いつか必ず、正しい事は正しいと言われ、悪い事は悪いと判決が出る時が来ます。7節に「主は、ご自身の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。」とあります。神様はご自分を私達にはっきりとお示しになっています。歴史上でも、神様は私達人間に言葉を語りかけて下さったり、御子を送って下さったりと人間の為に沢山尽くして下さいました。もし神様がこのようにご自分を私達にお示しになっていなかったら、私達は自然を通してでしか神様を見出す事が出来なかったでしょう。ここまで私達人間の為にして下さった事を思うと、神様がどれほど私達を大切にして下さっているかが分かります。また、イスラエルの民の為にして下さった沢山の奇跡により、私達も神様の哀れみ、力、また、良さを知ることが出来ます。

 

8節「【主】は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」新約聖書に出てくるイエス様の事を考えて見て下さい。罪の為、私達は、本当は神の怒りと罰を受けないといけない者だったのに、「怒るのに遅く」とあるように、悔い改める猶予まで与えて下さいました。そして、それだけでなく、私達の罪まで贖って下さって、神の愛を私達にお示しになりました。確かに、神様は罪人を罪に定められるお方です。しかし、それを知って、ヘリ下り、神様の哀れみを求めるならば、神様は喜んで私達を神様の恵の中に入れて下さいます。

 

l  Iサムエル記2章3節「高ぶって、多くを語ってはなりません。横柄なことばを口から出してはなりません。まことに【主】は、すべてを知る神。そのみわざは確かです。

 

l  詩篇8615節「しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。

 

 

 

哀れみ深い天のお父様 10節から14

 

ここに神様は罪人に対してどのように対処されるかが示されています。まず、神様が哀れみを与える事が出来るように怒りを抑えられている事が示されいます。罪人に対して、聖い神様の怒りは妥当です。ローマ書2章4節「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」私達は私達自身にふさわしい罰を今は受けていないと言う事です。イエス・キリストは小羊が殺されるようにこの世に殺され、私達が受けるべきであった罰を代わりに受けて下さったのです。

 

皆さんは天国に入ることのできる特権の価値を図った事があるでしょうか?私達人間が考えられない程に価値の高いものなのです。しかし、神様の哀れみによって、私達は受けるに相応しい者にさせて頂いたのです。たとい、罪の奥底まで行ってしまった人間に対しても、また、絶対に贖われる事が出来ないように見える人々にでも、神様には限界がありませんから、どんな人でもお救いになる力があります。だからと言って、私達は神様を軽視してしまうのも危ない事です。鍵となるのは、どのような姿勢で私達が神様の哀れみを受けて、保持するかです。11節にはこうあります。「天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。」ここで書かれている恐れとは、神様を敬い、尊敬する恐れのことです。そして、12節には「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」とあります。感謝です。このように私達のそむきの罪を私達から遠く離して下さるのも神様です。イザヤ書4325節「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」神様と私達の間で妨げとなっていた罪は完全に取り除かれるのです。

 

良い親は子供に対して忍耐を持つ事が出来ます。子供たちの事を思い、愛し、毎日良き交わりを持ちます。しかし、時には罰を与えなければいけない時も来るでしょう。しかし、それは親の愛によってであり、子供たちに正しい事を教えてあげたいと言う気持ちからです。同じように、神様も私達を神の子として見て下さっていて、私達の事を思い、愛し、良き交わりを毎日持ち、そして、時には私達を罰せられます。でも、それらは全て私達の成長の為に良いものとなって行くでしょう。詩篇100篇3節「知れ。【主】こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」そう、神様こそ私達を土から造られた方、私達の全てをご存じのお方です。この方をこれからも信頼して、もし、今苦しい状況であるならば、もしかして、そこから神様は私に何かを学ばせようとされているのかなと前向きに考えて、祈ってみて下さい。そこから得られるものを求めてみようではありませんか。神様は、私達に耐えられない所を通らせるお方ではありません。そして、ダビデのように、どんな時にも、主をほめたたえて行きましょう。

 

 

 

 

 

ゴールデンテキスト

 

詩篇1462

 

私は生きているかぎり、【主】をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。