今日の詩篇では神様を褒めたたえる事と神様に従う事を皆に勧めている所です。最初の一節と二節を読んでみると、神様を褒めたたえています。しかし、その褒めたたえているのが心からかどうかで神様が喜ばれるかどうかが変わってきます。
l 「外見の礼拝だけで、心が伴わないのであれば、それは神様を馬鹿にしているのと一緒だ」(W.T Purkiser)
礼拝を捧げる 1節と2節
皆さん、まず、あなたは誰かから招待状を受けたと想像して見て下さい。その招待状はパーティーへの招待状ではなく、神様の臨在への招待状です。その臨在へと参加する場合は、感謝と神様を褒めたたえる賛美を心からする事が条件です。1節「さあ、【主】に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。」その賛美こそ周りの人々の為ではなく、また、自分の為でもないものになるべきです。その賛美は主に捧げられるものだからです。賛美中に祝福されて、喜びを教会で表す事も素晴らしいことでしょう。1節にも「喜び歌おう、喜び叫ぼう」とあります。クリスチャンとは見た目が立派で秩序正しい事であるだけよりも、喜び輝いている事が良き証を立てるきっかけとなるでしょう。神様の民こそ祝福されている民である事を表しましょう。主から受ける喜びこそ私達の力となり、その喜びを周りに表す事により、良き証を立てる事が出来るのです。また、「われらの救いの岩に向かって」とあります。神様は強く、堅固で、私達が敵から逃げれる場所です。(詩篇62篇7節)2節では「感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。」とあります。神様は私達から感謝を受けるにふさわしい方です。しかし、私達の日ごろの神様への祈りは「お守り下さい」と言う事だけで終わっていないでしょうか?この詩篇の著者は御前にすすみゆき、感謝の歌をもって主に喜び叫ぼうと勧めています。
l 神様を礼拝する場所では、ただの礼拝の形を守る事だけでなく、祈りと感謝の賛美で満たされる場所であるべき。
l エペソ5章19節「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」
礼拝すべき理由 3節から7節
礼拝すべき理由は3節にあります「【主】は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。」神様には制限はなく、何でも出来て、全てに勝っている大いなる王様だからこそ、私達はこの方を礼拝すべきなのです。そして、この方こそ全ての者に勝っておられ、今も全ての者を支配されておられる方です。神様はただ無限、素晴らしい、また、主権者ってだけでなく、全てを造られたお方なのです。4節と5節「地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。」神様こそ地や海の奥底に何があるか全てご存じで、世界一高い山の頂も主のもので、誰も神様から隠れたり、逃げたりは出来ません。それは、主こそ全てを造られ、全てを知っておられるからです。ヨハネ1章3節「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」黙示録4章1節「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」私達は神様によって造られた者で、だからこそ神様の前には謙遜であるべきで、また、神様を心から賛美するべきなのです。詩篇24篇1節「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは【主】のものである。」6節と7節「来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、【主】の御前に、ひざまずこう。主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、」神様は彼に従う羊を愛しておられ、羊達を導き、守り、そして、大事にして下さるお方です。一日の終わりには、一匹ずつ数え、調子を見て、全ての羊達の体調まで気にかけて下さいます。そこまでして下さる羊飼いだからこそ、私達は日々感謝をするべきでしょう。
l 詩篇96篇5節「まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし【主】は天をお造りになった。」
礼拝に対しての注意点 7節から11節
今日の最後の聖書の箇所はへブル書3章7節から11節にも書かれてあるように、不信仰になる事に気をつけなさいとあります。7節の最後のところにこうあります。「きょう、もし御声を聞くなら、」このように神様が私達に話されるとき、私達はその御声に聞き従うべきです。もし、神様こそ私達の主であるならば、神様が望まれる事を私達はするべきだからです。もし、それに聞き従わないのであれば、私達の中で神様の立ち位置はどこにあるのでしょう?このような行動は私達の心を頑なにしてしまう行為となります。神様の御声に聞き従わない事が続けば、私達の霊の耳は鈍くなり、霊的に完全に死んでしまうおそれがあります。8節にもこのようにあります。「メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」ここで書かれてある事は出エジプト記17章1節から7節に書かれてある事です。イスラエルの民たちは水がなくなると直ぐにモーセに呟き、荒野へ私達を連れて来たのは、私達を殺すためだったなどとモーセに文句を言いました。イスラエルの民たちは、それまで見て来た全ての奇跡は忘れ、新たな問題が出てくると、信仰でそれらの問題が解決されるなどとは考えられなかったようです。最後には、彼らは、主は私達と共にいるのか?とまで疑ってしまいました。肉欲とは不信仰から始まります。毎日、イスラエルの民の上には雲があって、暑い日から彼らを守って導いて、夜には寒さから彼らを守るため、火の柱が彼らの上にあり、また、マナが毎朝彼らに与えられていたにもかかわらず、彼らは神様の存在に対しても疑問を持ち始めていました。肉の欲とは、信じる事を拒否するだけでなく、感謝も出来なくなるのです。イスラエルの民は神様が全ての必要を備える事が出来ると身をもって知っていましたが、彼らは神様を信じる事が出来ませんでした。40年間、エジプトから救い出された民たちは神様を信じる事が難しかったようです。神様は彼らを見て、悲しまれました。その結果、信じなかった世代は神様から与えられていた約束の地にはたどり着く事が出来ず、不満を持ったまま砂漠で死んでいってしまいました。へブル3章12節「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」
へブル書4章9節から11節「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」
ゴールデンテキスト
詩篇150篇6節
「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」