2025年3月30日 日曜礼拝メッセージです。
「真の礼拝」 ヨハネ4章19-24節
これは、イエス様がユダヤからガリラヤに行く時にわざわざサマリアを通って行かれた時、井戸のそばでのサマリアの女の人とイエス様の会話の箇所です。サマリア人はヤコブがサマリアで礼拝したのでサマリアで礼拝できると言い、ユダヤ人は、エルサレムに行かなければならないと言っていたので、神様をどこで礼拝すればよいかと尋ねました。礼拝にふさわしい場所はどこなのか…イエス様は会話の方向を変えて、礼拝する場所より、どのように礼拝するかが重要、つまり、御霊と真理によって礼拝することが重要だと語られました。人の心と魂には、自分よりも大きなもの、自分より強くて偉大な方を礼拝したいという願望があります。これは動物にはない、人間だけのものです。そのようにつくられたからです。人間は、月、星、太陽を拝んだり、金、銀、宝石の偶像を信仰の対象としたりします。しかし、どんなに自然がすばらしくても、彫刻家によって作られた偶像が美しくても、それらは神ではありません。私たちの礼拝にふさわしい唯一真の神がおられます。
私たちの教会には礼拝を助けるものがいくつかありますが、私たちはそれらを拝みません。聖書は神の言葉であり、心に平和を持つ秘訣を教えてくれます。天国への道を示してくれます。しかし、私たちは聖書を拝むことはしません。祭壇(恵みの御座)は、チャルズ・フィニーやD・L・ムーディーなどが、教会の前の方にベンチを置き、神様に必要を求めている人々がそこで神様を求めるために使用し始めました。公の場で、神様を求めていることを告白する助けとなってきましたが、それを拝むことはありません。会堂をきよい場として保とうとしていますが、会堂は、私たちが集まって、神様を礼拝する場所であり、兄弟姉妹と主にある交わりを持つ場所ではありますが、会堂を拝むこともしません。神は霊であり、私たちは御霊と真理によって神様を礼拝するべきです。「真理」とは何でしょうか? 真理は神の言葉にあります。真理を知りたいなら、神の言葉を読んでください。また、イエス様は真理です(ヨハネ14:6)。イエス様は、天国への道であり、いのちであり、生ける水です。私たちはまた、御霊によって礼拝するべきです。教会に行けないかも、聖書を読むことができないかも、祭壇で祈れないかも、神様について多くを知らないかもしれませんが、もしイエス・キリストは主であると信じて、自分の罪を告白するなら、神はあなた赦し、心を新しくしてくださいます。御霊と真理によって神様を礼拝しましょう。
2025年1月12日 日曜礼拝メッセージです。
「大能の力によって強められなさい」
エペソ6:10-18
ここにはクリスチャンの戦いという事が教えられています。ある人々は聖書の言葉を使って武力行使に走ってしまっている現実があります。しかし、今日の聖書の箇所にははっきりと「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです」(12)と言われています。クリスチャンたちが身につける武具とは、「腰には真理の帯」「胸には正義の胸当て」「足には平和の福音」「信仰の盾」「救いのかぶと」「御霊の剣、すなわち神の言葉」です。そして、今日読んだ御言葉の最後には「忍耐の限りを尽くして祈りなさい」と教えられています。
今日皆さんにお伝えしなければならないことは、現在の世間の流れの危険性について、そして、クリスチャンとして戦う必要があることについてです。その一つは、罪を容認してしまう危険性です。最近、ある小学生がこう言ったそうです「男同士でも結婚できるんだって」。それを聞いた時衝撃を受けました。このような考えは日本でも容認されてきています。しかし、神様は、ローマ1:24-27にもあるように、容認しないと言っておられます。
また、私たちは洗脳の危険にもさらされています。「マインドコントロール」という言葉をご存知でしょう。ずっと同じことが教えられ、それが自分の考えとなり、当たり前となり、是非を問うこともなく行動となってしまう…。私たちの日常にもその危険性が高まってきていることにお気づきでしょうか。先に語った「罪の容認」にしても、私たちが日頃見聞きしているメディアを通して、「いけないと思っていたけどそうでもないんだ」「これでいいんだ」「あなたもそうしてみたら」…と洗脳されていく危険性。
クリスチャンは、黙示録に書かれている「666」のことをご存知でしょう。それが獣の刻印であり、それがなければ売ることも買うこともできなくなる…そんな時はいつくるのか。すでにそうなりつつあると思います。
私たちは、日々何を見聞きするか、気をつけなければ、マインドコントロールされていき、罪を容認してしまう危険があります。もう一度神のみ言葉を読み、心に留めましょう。
2025年1月05日 日曜礼拝メッセージです。
「神の霊感による御言葉」
Ⅱテモテ3:16.17
神様はどうやって聖書を書いたのか疑問に思うかもしれません。神様はご自身の指で十戒を石に書きましたが、聖書の残りの部分は、様々な国に住む、様々な職種の40人の人を通して、1600年かけて書かれました。神様が何を書くべきかを導かれたので、聖書には間違いや矛盾がなく、66冊の小さな本を含んでいるにも関わらず、一つの本としてまとまっているのです。聖書は、最初は手で書き写されていき(写本)、1446年に印刷機が発明されてからは印刷され、これにより一般の人々が神の言葉を自分で読むことが出来るようになったのです。私たちは、聖書が重要な本であることを知っていますが、それが神様から与えられた神の言葉であると信じる理由は何でしょうか? 1、消え去ることがない マタイ24:35、マルコ13:31、ルカ21:33 無神論者、皇帝、独裁者たちが聖書を世界からなくそうと試みましたが、すべて失敗に終わりました。人がどんなに聖書を滅ぼそうとしても、神様は、神様の大切な言葉を守ってくださるのです。2、聖書中の預言が現実になっている 聖書の中の預言の多くはすでに実現しています。預言者エレミヤは、バビロンが破壊され、今後そこに人が住むことはないと預言し、その通りになっています…など。3、聖書の写本による保存
何百年もの間、聖書は手書きで書き写されてきましたが、間違うことなく、正しく書き写されていきました。タルムード学者(ユダヤ人筆記者)のグループは、単語、文字、点…細部に至るまで記憶から書くことは禁じられていて、全て直接写本を見て書き写さなければならない、など細かい規則を守って写本して行きました。私たちは聖書が間違いないと信じることが出来ます。4、写本の数 歴史的に有名な本でも、博物館に置かれている写本が6冊とか7冊、しかも、これらは原本ではなく、最初の本から作った写本で、原本が書かれてから千年余り経ってから写本が書かれています。しかし、聖書の写本は15万冊もあり、原本と写本のギャップはわずか二百から三百年です。5、私たちの心に語ってくださる 最も素晴らしいことは、聖書は生きている手紙であるという事です。神様は聖書を通して語ってくださいます。私たちの人生を導かれます。聖書を大切にしましょう。