私が小学五年生の時、今から34年前、私より一ヶ月ほど早く教会に通い始めていた母のあとを追うように教会に通うようになり、教会に行き始めて、ある集会の時、高市先生から招きがあり、高市姉妹にお祈りしない?と言われ、前に出てお祈りしました。
当時の私は救われるという意味について、あまりよくわからなかったけれど、高市姉妹が「子供だから大人が言うような、盗んだり、殺したり、だましたり、というような罪はないと思っても、お友達にいじわるしたり、うそをいったり、そういうことも罪になるのよ」と言われ、そのような罪でも心にあると天国にはいけない、そして、人間は生まれながらに罪をもって生まれてきたのでどんなに自分は罪をおかしたことがない・・と思っていても罪人なんだ、罪人は天国に入ることができないと言われたので、私もお祈りして天国に行きたいと思ってお祈りしました。子供ながらに、私の今までの悪い行いについて主の前に告白し、イエスさまの十字架を受け入れて救われました。とても単純な、「おさなご」の信仰だったと思います。私の救いはこのようなシンプルなものでした。
その後、大竹教会の集会の時、リバイバル集会の時、様々な集会の時に「きよめ」のメッセージが語られ、私は自分で言うのも何ですが、まだ中学生ではありましたが、「きよめ」について、真剣に考え、そして、その必要性を強く感じ、前に出てお祈りし、きよめの確信をいただき、そしてまた祈るということを繰り返していました。メッセージをきいて、その必要を示され、祈ったのです。その時にお祈りしたことは、決してウソとか、偽りではなく、そのときは本当に「きよめて欲しい」という気持ちがあったので、お祈りしたのですが、それでも、お祈りして、その時は、「あぁ、きよめていただいた、もうすごくきよくなった気がする・・」と喜んで、数日はその状態は続くのですが、残念ながらまた元に戻ってしまう・・という繰り返しがありました。それでも、そういうものなのかも・・と思っていました。ただ、そのきよめられた・・という気持ちは、私の場合は、あくまでも一時的であり、私の生活、心に、特別な変化をもたらすものではありませんでした。
そんなことを続けながら、それでも、教会生活は楽しく、教会に行くこと、集会に出ることも楽しく、日々を過ごしていました。しかし、20歳ごろだったと思います。私はめずらしく胃の調子が悪く、心配性の私は、もしかしたら、自分はこのまま死ぬのではないか?と思うようになりました。今でも、その心配性は私の一番の弱点ですが、その時の私は、もっともっと心配性で、主にゆだねる・・・とかいう信仰などもなく、胃の不調は続き、不安が不安を呼んで、私が死んだら母は嘆くだろうなとか、こんな若さで死ぬのか・・と不安で一杯な毎日になっていきました。今までは死は遠い先にあるもの・・だったものが、すぐ近くに、身近にせまってきたのです。そして、不安と恐怖が私を支配しました。「あぁ、どうしよう・・・私は死ぬのだ。」死んだらどうなるの?本当に天国に行けるの?不安ばかりが、私を支配しました。そして、その時、私は心の底から思いました。私の信仰はどこにいったのか? 永遠の命を信じるといいながら、こんなに不安になるなんて。信仰ってなんだろう? 私が信じているものって何だ? 何が何だか分からなくなりました。私は今まで何を信じていたの? そもそも、本当にイエス様っているの? そんな思いで一杯になった時、私の心に主はハッキリと示されたのです。
私の信仰は、なんて中途半端で、表面的なものであったのだろか? いいかげんで、うわっつらだけのもりだったのだろうか? 聖書も読まず、教会でメッセージを聞いても、その時だけウンウンとウナヅクだけで、なんといい加減な信仰ではないか!信仰の足元をグラグラとゆらされると、こんなにももろい信仰しかもっていない。私の信仰は火で精錬されたら、焼き尽くされていまうような信仰なんだ!私は、本当に愚かで、中途半端な者で、だからこそ、主に全く私をお捧げして、主に私を完全に変えていただく必要がある!主のものにしていただこう!こんな不安な気持ちで生きるならば、もう、完全に主のものにしていただこう!そして祈りました。その祈りはとても端的なものでした。「主よ、どうか、このような者を哀れみ、まことの信仰にあゆむ者としてください。私がもしも、これから先も命を与えられるならば、これからは、私のためではなく、主のために生きます。私を完全に主がご支配ください」
祈ると、本当に気持ちが楽になりました。あぁ、もう生きることも、死ぬことも、私の思いではなく、主のご計画であり、主のご支配にあるのだ。生きることができれば、それも幸いだし、そうでなくても、それを受け入れよう。
そして、幸いにも、私の体調も良くなってきて、今に至ることができていることを感謝します。
ガラテヤ2章20、21節
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているです。私は神の恵みを無にはしません。」 の御言葉のとおりです。
私はきよめられた後、人生は、全く変わりました。よく救われた後に人生が変わりましたという証を聞きますが、私は、きよめられた後に、全く変わりました。聖書も通読することができるようになりました。それまでは、読むことはできても、通読は難しく、また、読んでいても、それは霊的に読むということではなく、文字を読むという作業であり、心の中に入ってくるものではありませんでした。でも、きよめられてからは、聖書がどんどん心の中に入ってきて、信仰良書も読みたくなりました。そして、読むと乾いたスポンジが水を吸収するように、どんどん私の霊的な恵みになっていきました。霊の目が開かれたような感じでした。
きよめられてから、もう20年以上になりますが、それでも、日々、主は私を教え、導いてくださることを感謝します。その時々に、主は私を時にはムチをもって教え、道をそれていることを教えてくださいます。でも、ほとんど毎日、主の哀れみと、恵みを感じるばかりです。主は私を本当によくご存知で、私にふさわしい方法で、教え、訓練してくださっていることを感謝します。きよめられましたが、天国に行くまでは、めぐみからめぐみへと、その恵みが尽きることがないように、また、より霊的にさらにきよめの恵みをいただくことが出きると信じ、キリストに似た者となるために、この者を成長させてくださることを信じています。それこそが、ホーリネスの祝福であり、恵みであることを感謝します。主に栄光がありますように。以上が私の救いときよめのお証です。感謝します!
Y.Y.