私は1994年(平成6年)4月3日に、当時、大竹教会の牧師だった浅林先生のもとで洗礼を受けました。小瀬川の冷たい水の中で、生まれ変わりました。ちょうど40歳でした。それから24年が経ちます。しかし、私は人に誇れるような立派なクリスチャンではありません。周りの人には自分をクリスチャンと言いますが、熱心に教会に誘ったりはしません。ほぼ毎日聖書は読みますが、聖書をあまり人に勧めたりはしません。大竹教会がなくなり、一時は他の教会に通っていましたが、その教会も閉じられ、今は母教会の岩国教会に通っています。それも熱心な教会員とは言えず、日曜礼拝もごらんの通り休みがちです。かといってクリスチャンとして駄目だなあと悲観的にもならず、何か零細企業が細々と店をやっている感じでいます。キリスト教の看板を下ろす気はないのです。なぜなのかと問われたら、幾つもの理由が挙げられますが、今日はその一つを証しします。人生で一度だけ神の声を聞いたことがあるのです。長い話ですが、聞いて下さい。
1991年(平成3年)の夏、私は北海道の札幌で離婚しました。私は38歳でした。別れた妻との間には長男9歳、長女7歳、次男3歳の3人の子どもがいて、親権をどうするか悩みました。当時、長女と次男が通っていた幼稚園の母体が札幌福音教会で、そこに三橋萬利さんという牧師がいました。三橋牧師は両足と右手が全く動かず、いつも奥さんの背中に負ぶさって移動して伝道するひとでした。厳格な父親のようでいて、眼差しに深い愛を感じさせる人間としてもスケールの大きな人でした。離婚の相談に訪れた私達に、三橋牧師は私に長男だけを引取り、2人は妻に渡しなさいと助言されました。厳しい人だなと思いましたが、今思えば現実的で合理的な意見だなと思います。全てを神に委ねた方の意見だと理解できます。しかし私は、兄弟が離ればなれに暮らすのは忍びないと思い、また離婚の原因が自分にあるという負い目と責任で、私が3人を引き取ることに決めました。様々な事情を抱えていた妻も同意し、私はその年の秋に、実家のある岩国市に3人の子どもを連れて帰りました。
1992年(平成4年)は私と3人の子どもにとって再出発の年であり、荒海への船出でした。私たち家族は和木町に移り、私は岩国米軍基地に就職しました。子どもたちはそれぞれ小学校と保育園に入りました。それからの4年間は私にとっても、また子どもたちにとっても大変な時期で、私はよく途方に暮れていました。生活も荒れて、時に無責任に子どもをほったらかしにしたこともあります。心はすさび、罪悪感でやり場のない気持ちを酒でごまかす日も多くありました。私自身、人生の転落、一歩手前にいたような気がします。
札幌での三橋牧師の影響もあり、私は実家に帰るとすぐにキリスト教会を探し、運良く大竹教会に出会いました。当初はレスター牧師でしたが、すぐに浅林先生が転任されて来ました。そして1994年に洗礼を受けるまでに、私の生活では父の死やアメリカへの長期出張など様々なできごとが重なり、私は心身とも疲れ果てていました。心配は子どもたちで、忙しい父親に母親のようにこまめな生活の面倒は見てやれず、特に小学生の娘にはつらい思いをさせたと胸が痛みます。長男は表向きは元気そうでしたが、母親を慕っているのがわかり不憫でした。次男は母親への恋慕は少なかったのですが、甘やかせて育て苦労しました。しかし、その生活も浅林先生や大竹教会の兄弟姉妹たち、近所や多くの周囲の人たちに支えられていたことを覚え、感謝の言葉しかありません。
様々な心の葛藤を経て、1994年私は洗礼を受けクリスチャンとなりました。その年に私は、今の妻と出会い、翌年彼女は私達家族の一員となります。妻は私より1歳年長で、未婚者でした。妻の母親は私達の結婚を絶対に許しませんでした。娘が3人の子持ちに嫁ぐのが、情けなく世間体も悪いと思ったのでしょう。私は妻の実家では、1年間敷居をまたがせてもらえませんでした。許しが出るのは1年後で、妻の母親と私の亡くなった母が大竹女学校時代に同級生だとわかってからです。不思議な縁でした。ここでも神の働きを感じます。
妻が来て私達の家族は5人になりました。一応家族の形が整い、私も安心して仕事へ行けるようになりました。妻は最初から「子どもたちの母親にはなれない」と宣言していたので、私も了承し納得していました。しかし、私は子どもたちの心の部分を真剣に考えていませんでした。アレルギー反応はすぐに起こり、中学生の長男が学校へ行かなくなりました。登校拒否です。新しい母親の存在に、彼の心は拒否反応を起こしたのです。娘は妻を母親としてではなく、父親の妻として受入れたようで上手に順応しましたが、やはり成長するに従い感情的な衝突も起こり始めました。次男は妻を違和感なく受入れました。確かに妻が来てから生活は安定し、日常生活は平穏に見えましたが、私は妻と子どもたちの間に立つという新たな心の葛藤に直面するようになりました。特に長男と妻とのきしみはひどくなるばかりで、妻の側に立てば子どもを叱り、子どもの側に立てば妻におもねるということが続きました。子どもを叱る時が一番つらい時間でした。そのうち、私はこの結婚は失敗だったのではないかと思うようになっていました。
そんな折り、大竹教会にドン・ボーマン、グレイス・ボーマン夫妻が特別集会にやってきました。私は以前にボーマン夫妻にはお会いしたことが幾度かあり、ボーマン夫妻も私のことをご存じだったと思います。集会が終わり、教会の二階で会食が始まりました。浅林先生や浅林姉妹、教会の兄弟姉妹、子どもたちがボーマン夫妻を囲んでの和やかな食事会です。その時、私の妻や子どもたちも参加していたと思います。食事が進んで何かの拍子に、ボーマン先生が私だけに日本語で「たいへんですね」と言われました。その前後にどんな話題があったか覚えていませんが、言葉は急に発せられた感じです。その言葉は私の心の奥深くに響きました。そんなことは初めての経験でした。ああ、私の悩みをこのボーマン先生は全てご存じなのだと、私は何とも言えない喜びに満たされました。私の悩みや苦しみを全部わかってくれる人がいた。私のつらい人生を知ってくれる人がいた。私は胸が熱くなり、嬉しさに涙が出ました。救われた気持ちが湧き起こりました。その後、私の抱えていた苦しみや悩みの塊が、温かいもので溶かされていく気持ちになりました。私はボーマン先生の思いやりの言葉に励まされ、妻と子どもたちとの問題を何とか解決していきました。
でも数年後に気づいたのです。当時、ボーマン先生は私の家庭環境や私の経歴はあまりご存じなかったはずです。それでも私の心に届く言葉を出されたのはどうしてか。その言葉は本当に私の心を揺さぶったのです。そして、私の人生のすべてを知る人物がもう一人いることに気づきました。神でした。私は今でも、あの言葉は神がボーマン先生を通して、私に語ったのだと信じています。私は以前も、以後も、そんな言葉を人から聞いたことがありません。だから、私はクリスチャンをやめないのです。
N.K.