高市姉妹の証し
救い恵みの証しができること、心から感謝いたします。
私が35歳の時前初めて教会に行きました。当時東洋紡の社宅に住んでいて友達が沢山いて、子供も2人いました。子どもたちも友達に不足もなく楽しく生活していましたが、どうしてもお母さん同士になると子供の話になって、今の若いお母さん方を見ていると、「あー私の若い時と同じだなーと思い出します。当時もお母さん方と、子供の事ばかり話し合って、あーでもない、こーでもないって、毎日そう言いながら明け暮れていたんですが、どこそこの小学校で心理学の先生の講演がある、有名なお寺のお坊さんの話がある、大学の先生の話がある、と聞駆けつけましたが、全部先生たちの答が違うので、その度に気持ちが迷うようになりました。私はいったい誰を何を信じたらいいのか迷うようになって、主人が仕事から帰って来たら、そのことを話すと主人は「そんなに神経質にならなくてもいいんじゃないの。良い子供達じゃない。親が神経質になったら子供まで神経質になるから神経質にならんでもいいよ。」と答えてくれるんですが、私は満足できなくて悩んでいました。そんな時、郵便受けに春の5日間の伝道集会のチラシが入っていて、それで教会に一度行ってみよう、5日間だけ行ってみようと言う思いで教会に行きました。
隣の奥さんがその教会に通ってらしたんですが、私はまったくそのことを知りませんでした。その奥さんがとっても喜んでくれて「あんたの首に縄でも縛り付けて引っぱって行きたかってけど、そうはいかんからなー。でも嬉しい。」って言ってくれて、教会に一緒に行くようになって、楽しかったです。 橋本幸雄先生が来てくださって5日間講演してくださって、とっても楽しくて、その5日間だけねーって傲慢なことを思っていたんですが、5日過ぎても集会に出席し続けました。隣の奥さんが通っていたと言うこともあったんですが、なんせ楽しくて、その頃尾津に外人住宅があって、そこに教会があったのですが、そこに通い始めたら実は息子と娘がボーマン先生の日曜学校に通ってたことを知りました。私はまったく知らなかったのですが、社宅の外に大きな木があって、そのそばで集ってくる子供たちにボーマン先生がお話をしてくれたりして、そこに子どもたちは行ってたらしいです。わたしが教会に行き初めたら、「元気なお子さんは高市さんのお子さんだったの」って、日曜学校の先生がおしゃるくらい子どもたちの方が先輩だったんですが、そうしている内に主人も教会に通うようになって、家族中が教会に通うようになりました。社宅の子供たちがたくさん日曜学校に行っていて、本当にまだ私たち家族が朝ご飯を食べている時間でも子供たちが集まって来て、バスで迎えに来てくれるのを待っていました。そして息子が6年生のころだったと思うのですが、その頃に私たちの家で集会を始めました。その時もたくさんの子ども達が、と言っても息子の同級生なんですが、私は「今度はどんなおやつを作ろうかな」と、それも楽しみの一つになりました。
教会には行きはじめましたが、まだ聖書の事も神様の事も余り解っていなかった、でもたくさんの友達を教会に導きました。だから全てを理解していなくても喜んでいると、伝道することができるんですよね。
そんなふうに私は、喜んで教会に通っていましたが、説教が終わると、その頃は毎回恵みの御座が開かれて、「祈りませんか?祈る人は前に出て祈りませんか?」って毎回声を掛けられる。それが嫌で嫌でたまらなくて、隣の奥さんに「私教会は好きだし楽しいけど、最後に前に出て祈りませんかって言うの、あれが嫌でたまらんのだけど。」って言ったら、「あれは言わしときゃいいの。先生はあれを言わないといけないのよ。もし導きをしないで集会が終わって、その人が教会から出て事故にでもあったら責任を感じるからね。」「あーそうなんだ。」って気が楽になりました。でも、そんな私が、ある時招きがなされた時に、スーッと前に出て行くことができたんです。あれだけ呼びかけが嫌だと思っていたのに。今でも覚えていますが、左の方で先生たちに祈ってもらって、救いを受けたのです。その時は解りませんでしたが今思うと、聖霊様がずっと働いていてくださって、押し出してくださったんですね。感謝しています。あの時がなかったら今の私はなかったと思うんです。先生と話をし祈ってもらってる時に、この自然万物を造られた神さまがいらっしゃるんだ、と言うお話をされて、私たち人間も神様に造られた、この世は神様の創造された世界だと聞いて、「あーそうよね。私信じます。」と言ったら、みんながすごく喜んでくれて、「おめでとう。高市さんは信じる信仰をもったね。」と。皆が泣いて喜んでくれたんですが、その時の私は、どうして泣いて喜んでくれるのかがわかりませんでした。その時の御言葉がローマ書8章の16節です。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださっています。」
この聖書は、私が教会に行ったときにボーマン先生からプレゼントされた新約聖書ですけれども、ここに1968年6月9日受救、ローマ8章16節と記してあるので、救われた後に、「私は本当に救われたのかなぁ。」とふっと迷う時がありましたが、聖書を開いては、「私はあの日に救われて、神様の子どもにしていただいたのだ。」と御言葉によって確信することができました。
早天祈祷会があると聞けば社宅から尾津まで近かったので自転車を飛ばして早天祈祷会に行きましたし、また家庭集会もよくやりました。そんな中にあっても、私はまだ罪についてよくわかりませんでした。自分が生きてきた人生の中で、自分の言葉や行いにおいて、告白して赦していただかないといけない罪。神(イエス様)が十字架にかかって血を流して死んでくださった、それはあなたの罪のためだったんですよと聞いても、いまひとつピンときませんでした。喧嘩したらいけないとか、嘘ついたらいけないとか言われても、この世に人間生きてたらそれくらい当り前だよね、と。若い時は喧嘩もしたし、色々あったけれど、2000年も前のイエス様が私の為に十字架にかかって血を流してくださった、それがどうしても解らなくて、罪について考えたり悩んだりしたこともあります。そしてあるとき先生に「私子供のころに田んぼの土手にあった柿の実を友達と取って食べたりしたけれど、それも罪ですか?」と聞くと、「罪ですね。その柿はあなたのものではないですよね。それは泥棒と同じでしょ。」と言われて。「んー、楽しい思い出なんだけど。」と思いながらも、お詫びのお祈りをしました。そんなふうで、なかなか罪についてわからなかったです。
そうこうしているうちに、尾津にあった教会が現在の藤生に移転しました。それまでにボーマン先生が白浜団地に土地を買っておられたんですが、その土地をみんなで見に行って、ここに教会を建てるにはちょっと場所が悪いんじゃないか、表の道路から入りすぎてるから。違う場所を探したほうがいいんじゃないか、と。ボーマン先生は相当歩かれたと思います。そして、ボーマン先生は祈りながら、集まってくる子供たちの安全など色々考えて今の場所を見つけてくださいました。献堂式が行われ、新しい会堂での礼拝が守られていきました。
大きな試練も経験しました。教会がことばによる攻撃を受けて大きく傷つきました。当時の宣教師たちはとてもつらかったと思います。しかし、一言も不平や泣き言を言わず、本当に一度も聞いたことがありません。ただただ神様に頼り、祈り、忍耐されたと思います。教会が分裂してもおかしくない状況でしたが誰一人信仰を捨てることも教会を離れることもありませんでした。祈りの勝利です。私はその時祈りの力を知りました。主を賛美します。
ヨハネ3章15節「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
ヨハネ3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
その頃に一生懸命覚えた御言葉は今もわたしの心の大きな力となっております。
そのようにして主人も子供たちも一緒に教会生活をおくる中で、きよめのメッセージを聞くようになりました。きよめのメッセージを聞くようになってようやく、私は今までわからなかったイエス様の十字架や自分自身の罪についてわかるようになってきました。ほんとうに人間の心の中には醜いものがある、救いを受けると言うことは今まで犯してきた罪を赦していただき救われることだけれど、きよめと言うのは心の中にある汚れなどきよめていただくこと、そうしないと平安がない、というメッセージを聞きました。その当時集っていた姉妹たちときよめについて話し合ったりして、ボーマン先生にも何度も何度も、「もう一度教えてください。きよめってなんですか?」と。どうしてもそれが必要だと思って、一生懸命祈り求めました。新約聖書を読んでも、旧約聖書を読んでも、きよめについてたくさん書かれています。「きよくなければ主を見ることができない」と。何度も祈って、御言葉を握って祈って、「よし、きよめられた」と思っても確信がもてない。聖い神様の御許に行くにはきよくなければ・・・と思い、きよめについての本もたくさん読みました。求めては祈り、祈っては求め続けました。そしてついに一人で本を読みながら祈っていた時に静かに「ほんとに、これだ。これが必要だったんだ」と御言葉をいただき、平安を受けました。今でもそれを信じて信仰生活を続けています。
救われてから53年になりますが、神様から離れよう教会から離れようという思いが一度もなくて、集会に行くと恵みだなーと感謝させていただいています。そしてだんだん歳も重ねて来て今本当に思うことは、何もできなくなって長―い一日を過ごすこともあるんですけれども、「神様あなたから与えられる時間、今日もどのように過ごしましょうか?」。朝のディボーションの時に祈ったりするんですが、とっても寂しく過ごすときもあります。あれもできない、これもできない。あんなにトラクト配布したり訪問したりしたけど今それができない、寂しさを一人でいると感じて、「あーなんか神様に申し訳ないなー。頂いた時間を寝転んでごろごろしてるの。」本を読んだりもするんですが目も悪くなってそれも自由にできなくなってきて、ますます時間が長く感じるようになって、若かった時色々やれてたことができない。そんな時に日野原先生の本を読ませていただいて、「私の魂の歩んだストーリー」という題の本ですが、その中に引用されていた文章が心に留まりました。
「若者が元気一杯はつらつと闊歩するのを見てもねたみはしない。弱っても、人のために役立たなくても親切で柔和でありたい。老いの重荷は神のたまもの。古びた心は自分で最後の磨きをかける真の故郷に帰るために、自分とこの世をつなぐ鎖を少しずつ外してゆくのも大切な仕事の一つ。そしてなにもできなくなればそれを謙虚に受け入れよう。神は最後に最も良い仕事を残して下さる。それは祈りだ。命を見つめてより良い人生のために。希望は心のうちに自分が作るもの」
あー、ほんとうにそうだ。今の自分を謙虚に受け止めなければならない。この年になって若い時にやってたようにトラクト配布ができなくても、祈る仕事が残されている。天国に希望をもつことができるためにも一人祈ることが高市姉妹の証し
救い恵みの証しができること、心から感謝いたします。
私が35歳の時前初めて教会に行きました。当時東洋紡の社宅に住んでいて友達が沢山いて、子供も2人いました。子どもたちも友達に不足もなく楽しく生活していましたが、どうしてもお母さん同士になると子供の話になって、今の若いお母さん方を見ていると、「あー私の若い時と同じだなーと思い出します。当時もお母さん方と、子供の事ばかり話し合って、あーでもない、こーでもないって、毎日そう言いながら明け暮れていたんですが、どこそこの小学校で心理学の先生の講演がある、有名なお寺のお坊さんの話がある、大学の先生の話がある、と聞駆けつけましたが、全部先生たちの答が違うので、その度に気持ちが迷うようになりました。私はいったい誰を何を信じたらいいのか迷うようになって、主人が仕事から帰って来たら、そのことを話すと主人は「そんなに神経質にならなくてもいいんじゃないの。良い子供達じゃない。親が神経質になったら子供まで神経質になるから神経質にならんでもいいよ。」と答えてくれるんですが、私は満足できなくて悩んでいました。そんな時、郵便受けに春の5日間の伝道集会のチラシが入っていて、それで教会に一度行ってみよう、5日間だけ行ってみようと言う思いで教会に行きました。
隣の奥さんがその教会に通ってらしたんですが、私はまったくそのことを知りませんでした。その奥さんがとっても喜んでくれて「あんたの首に縄でも縛り付けて引っぱって行きたかってけど、そうはいかんからなー。でも嬉しい。」って言ってくれて、教会に一緒に行くようになって、楽しかったです。 橋本幸雄先生が来てくださって5日間講演してくださって、とっても楽しくて、その5日間だけねーって傲慢なことを思っていたんですが、5日過ぎても集会に出席し続けました。隣の奥さんが通っていたと言うこともあったんですが、なんせ楽しくて、その頃尾津に外人住宅があって、そこに教会があったのですが、そこに通い始めたら実は息子と娘がボーマン先生の日曜学校に通ってたことを知りました。私はまったく知らなかったのですが、社宅の外に大きな木があって、そのそばで集ってくる子供たちにボーマン先生がお話をしてくれたりして、そこに子どもたちは行ってたらしいです。わたしが教会に行き初めたら、「元気なお子さんは高市さんのお子さんだったの」って、日曜学校の先生がおしゃるくらい子どもたちの方が先輩だったんですが、そうしている内に主人も教会に通うようになって、家族中が教会に通うようになりました。社宅の子供たちがたくさん日曜学校に行っていて、本当にまだ私たち家族が朝ご飯を食べている時間でも子供たちが集まって来て、バスで迎えに来てくれるのを待っていました。そして息子が6年生のころだったと思うのですが、その頃に私たちの家で集会を始めました。その時もたくさんの子ども達が、と言っても息子の同級生なんですが、私は「今度はどんなおやつを作ろうかな」と、それも楽しみの一つになりました。
教会には行きはじめましたが、まだ聖書の事も神様の事も余り解っていなかった、でもたくさんの友達を教会に導きました。だから全てを理解していなくても喜んでいると、伝道することができるんですよね。
そんなふうに私は、喜んで教会に通っていましたが、説教が終わると、その頃は毎回恵みの御座が開かれて、「祈りませんか?祈る人は前に出て祈りませんか?」って毎回声を掛けられる。それが嫌で嫌でたまらなくて、隣の奥さんに「私教会は好きだし楽しいけど、最後に前に出て祈りませんかって言うの、あれが嫌でたまらんのだけど。」って言ったら、「あれは言わしときゃいいの。先生はあれを言わないといけないのよ。もし導きをしないで集会が終わって、その人が教会から出て事故にでもあったら責任を感じるからね。」「あーそうなんだ。」って気が楽になりました。でも、そんな私が、ある時招きがなされた時に、スーッと前に出て行くことができたんです。あれだけ呼びかけが嫌だと思っていたのに。今でも覚えていますが、左の方で先生たちに祈ってもらって、救いを受けたのです。その時は解りませんでしたが今思うと、聖霊様がずっと働いていてくださって、押し出してくださったんですね。感謝しています。あの時がなかったら今の私はなかったと思うんです。先生と話をし祈ってもらってる時に、この自然万物を造られた神さまがいらっしゃるんだ、と言うお話をされて、私たち人間も神様に造られた、この世は神様の創造された世界だと聞いて、「あーそうよね。私信じます。」と言ったら、みんながすごく喜んでくれて、「おめでとう。高市さんは信じる信仰をもったね。」と。皆が泣いて喜んでくれたんですが、その時の私は、どうして泣いて喜んでくれるのかがわかりませんでした。その時の御言葉がローマ書8章の16節です。「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださっています。」
この聖書は、私が教会に行ったときにボーマン先生からプレゼントされた新約聖書ですけれども、ここに1968年6月9日受救、ローマ8章16節と記してあるので、救われた後に、「私は本当に救われたのかなぁ。」とふっと迷う時がありましたが、聖書を開いては、「私はあの日に救われて、神様の子どもにしていただいたのだ。」と御言葉によって確信することができました。
早天祈祷会があると聞けば社宅から尾津まで近かったので自転車を飛ばして早天祈祷会に行きましたし、また家庭集会もよくやりました。そんな中にあっても、私はまだ罪についてよくわかりませんでした。自分が生きてきた人生の中で、自分の言葉や行いにおいて、告白して赦していただかないといけない罪。神(イエス様)が十字架にかかって血を流して死んでくださった、それはあなたの罪のためだったんですよと聞いても、いまひとつピンときませんでした。喧嘩したらいけないとか、嘘ついたらいけないとか言われても、この世に人間生きてたらそれくらい当り前だよね、と。若い時は喧嘩もしたし、色々あったけれど、2000年も前のイエス様が私の為に十字架にかかって血を流してくださった、それがどうしても解らなくて、罪について考えたり悩んだりしたこともあります。そしてあるとき先生に「私子供のころに田んぼの土手にあった柿の実を友達と取って食べたりしたけれど、それも罪ですか?」と聞くと、「罪ですね。その柿はあなたのものではないですよね。それは泥棒と同じでしょ。」と言われて。「んー、楽しい思い出なんだけど。」と思いながらも、お詫びのお祈りをしました。そんなふうで、なかなか罪についてわからなかったです。
そうこうしているうちに、尾津にあった教会が現在の藤生に移転しました。それまでにボーマン先生が白浜団地に土地を買っておられたんですが、その土地をみんなで見に行って、ここに教会を建てるにはちょっと場所が悪いんじゃないか、表の道路から入りすぎてるから。違う場所を探したほうがいいんじゃないか、と。ボーマン先生は相当歩かれたと思います。そして、ボーマン先生は祈りながら、集まってくる子供たちの安全など色々考えて今の場所を見つけてくださいました。献堂式が行われ、新しい会堂での礼拝が守られていきました。
大きな試練も経験しました。教会がことばによる攻撃を受けて大きく傷つきました。当時の宣教師たちはとてもつらかったと思います。しかし、一言も不平や泣き言を言わず、本当に一度も聞いたことがありません。ただただ神様に頼り、祈り、忍耐されたと思います。教会が分裂してもおかしくない状況でしたが誰一人信仰を捨てることも教会を離れることもありませんでした。祈りの勝利です。私はその時祈りの力を知りました。主を賛美します。
ヨハネ3章15節「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
ヨハネ3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
その頃に一生懸命覚えた御言葉は今もわたしの心の大きな力となっております。
そのようにして主人も子供たちも一緒に教会生活をおくる中で、きよめのメッセージを聞くようになりました。きよめのメッセージを聞くようになってようやく、私は今までわからなかったイエス様の十字架や自分自身の罪についてわかるようになってきました。ほんとうに人間の心の中には醜いものがある、救いを受けると言うことは今まで犯してきた罪を赦していただき救われることだけれど、きよめと言うのは心の中にある汚れなどきよめていただくこと、そうしないと平安がない、というメッセージを聞きました。その当時集っていた姉妹たちときよめについて話し合ったりして、ボーマン先生にも何度も何度も、「もう一度教えてください。きよめってなんですか?」と。どうしてもそれが必要だと思って、一生懸命祈り求めました。新約聖書を読んでも、旧約聖書を読んでも、きよめについてたくさん書かれています。「きよくなければ主を見ることができない」と。何度も祈って、御言葉を握って祈って、「よし、きよめられた」と思っても確信がもてない。聖い神様の御許に行くにはきよくなければ・・・と思い、きよめについての本もたくさん読みました。求めては祈り、祈っては求め続けました。そしてついに一人で本を読みながら祈っていた時に静かに「ほんとに、これだ。これが必要だったんだ」と御言葉をいただき、平安を受けました。今でもそれを信じて信仰生活を続けています。
救われてから53年になりますが、神様から離れよう教会から離れようという思いが一度もなくて、集会に行くと恵みだなーと感謝させていただいています。そしてだんだん歳も重ねて来て今本当に思うことは、何もできなくなって長―い一日を過ごすこともあるんですけれども、「神様あなたから与えられる時間、今日もどのように過ごしましょうか?」。朝のディボーションの時に祈ったりするんですが、とっても寂しく過ごすときもあります。あれもできない、これもできない。あんなにトラクト配布したり訪問したりしたけど今それができない、寂しさを一人でいると感じて、「あーなんか神様に申し訳ないなー。頂いた時間を寝転んでごろごろしてるの。」本を読んだりもするんですが目も悪くなってそれも自由にできなくなってきて、ますます時間が長く感じるようになって、若かった時色々やれてたことができない。そんな時に日野原先生の本を読ませていただいて、「私の魂の歩んだストーリー」という題の本ですが、その中に引用されていた文章が心に留まりました。
「若者が元気一杯はつらつと闊歩するのを見てもねたみはしない。弱っても、人のために役立たなくても親切で柔和でありたい。老いの重荷は神のたまもの。古びた心は自分で最後の磨きをかける真の故郷に帰るために、自分とこの世をつなぐ鎖を少しずつ外してゆくのも大切な仕事の一つ。そしてなにもできなくなればそれを謙虚に受け入れよう。神は最後に最も良い仕事を残して下さる。それは祈りだ。命を見つめてより良い人生のために。希望は心のうちに自分が作るもの」
あー、ほんとうにそうだ。今の自分を謙虚に受け止めなければならない。この年になって若い時にやってたようにトラクト配布ができなくても、祈る仕事が残されている。天国に希望をもつことができるためにも一人祈ることが残されてる、と思いました。前によく似た本を読んで私には祈りがあると思ったことがあるんですが、この祈りがなかなか難しい。しかし、現在の状態を謙虚に受け入れて、もう一度心新たに祈りに専念していきたいと思わせていただき感謝しています。
聖書のイザヤ46章4節「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」
神様に救われ、きよめられ、導かれ、ここまで神様と共に歩んでくることができたことを心から感謝します。 C・T
残されてる、と思いました。前によく似た本を読んで私には祈りがあると思ったことがあるんですが、この祈りがなかなか難しい。しかし、現在の状態を謙虚に受け入れて、もう一度心新たに祈りに専念していきたいと思わせていただき感謝しています。
聖書のイザヤ46章4節「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」
神様に救われ、きよめられ、導かれ、ここまで神様と共に歩んでくることができたことを心から感謝します。 C・T