始めに

 

今日のレッスンは幸いな人、九月号から取らせて頂きました。

 

今日の御言葉の中では、神の裁きが預言されていて、ユダの王様さえも退けられ、エルサレムの宮は破壊され、民は殺されてしまうと言う事が書かれてあります。確かに、神様はバビロンにエルサレムの国を攻める事をお許しになりましたが、それは、民達に何回警告しても、罪をやめなかったからです。神様は喜んで私たちを裁くお方ではなく、哀れみをもって、私たちを正しい道へと導こうとしておられるのです。しかし、もし、私たちがそれに尚且つ反抗して、罪を継続するのであれば、その時は、私たちは神様によって裁かれます。神様が私たちを裁かれる時は、神様の憤りが静まる時まで、全ての悪について、徹底的に裁きが行われる事も私たちは忘れてはいけないと思います。ユダヤ人もエルサレムで偶像礼拝をし続け、弱い者を蔑み、正しい者を殺し、神に頼らず、外国の神々に助けを求めました。その結果、彼らの上に神様の怒りが下ったのです。今でも、神様は人間が頼っている物を打ち砕き、ご自身へと私たちを導く事がお出来になります。でも、そのようなことになれば、私たちは少しの間苦しみを味わなければならないかもしれません。痛い目に合う前に、神様に立ち返る方が私たちにとって良い事でしょう。

 

 証 裁きの中にもあわれみ

 

1937年、軍部の暴走によって中国との全面戦争に突入した日本は、1941年にアメリカと開戦しました。しかし、圧倒的な軍事力の差によって敗戦し、1945年ポツダム宣言を受け入れました。本来であれば、敗戦国として連合国による分割占領を免れない状況であったにも関わらず、それがなされなかったのは、クリスチャンであった中国国民党の蒋介石の力が大きかったと言われています。

 

1945年、日本で玉音放送が流される一方で、中国の重慶では蒋介石の全中国へのラジオ放送が流されていました。蒋介石は、戦争がかえって人類が相互に信頼し合う必要性を知らしめた事を述べ、将来戦争が起こる事が不可能になったと言いました。そして、ここに「汝の敵を愛せよ」と命じられたキリストの教訓を思い出して、彼はこう続けました。「わが中国の同胞よ、『既往をとがめず、徳をもって恨みに報いる』ことこそ、中国文化の最も伝統的な精神であると肝に銘じてほしい」

 

すなわち、日本人に恨みを持たず、かえって善を持って報いようと中国の国民に訴えたのです。敵とすべき日本の軍はすでに連合国に倒されていること、日本の罪のない人民を敵にすべきではなく、彼らに侮辱を加えてはならないと、彼は中国国民に訴えたのです。このような蒋介石のキリスト者としての態度によって、敗戦後中国に残された多くの日本人が、本土へと帰還する事が出来たのです。

 

 

 

キリストの教えにより歩んでいた方々の御かげで今の日本が有るのだと思うと、本当に感謝ですね。私たちクリスチャンもキリスト者として良い証をこれからも立てて行きましょう。そして、神様の悲しみも想像してみましょう。今も神様を知らずに、神様から離れて罪に縛られている人々の為にも祈りましょう。神様は私たちが裁かれなくてもいいように、イエス様を送って下さったのです。そして、イエス様は私たちの罪の罰を受けて下さったのです。私たちもイエス様の教えの内に歩み、イエス様のおかげ様で赦されたのだと感謝し、周りにもこの恵みを分かち合って行きましょう。例え、人間的に頼りにしていたものが取り除かれても、その事でがっかりするのではなく、神様だけを頼りにする機会が与えられたのだとプラス思考に考えるほうが良いでしょう。

 

 

 

ゴールデンテキスト

 

エゼキエル2117節「わたしもまた、手を打ち鳴らし、わたしの憤りを静めよう。【主】であるわたしが語るのだ。」

 

この「手を打ち鳴らし」と表現されていますが、これは怒りを表現しているそうです。私たちが罪を継続してしまうと、神の怒りが下るのです。