今日のレッスンでは真の神様に頼らず、偶像に頼ってしまった民達から私たちが何を学べるか考えて見たいと思います。

 

B.C.721 北イスラエルの民達は捕虜として連れて行かれてしまいました。その後、南側のイスラエル(ユダ国)もバビロンの軍に侵略され、民達はバビロンの支配下に置かれました。預言者エレミヤは民達にバビロンの方式に従いなさいと言いましたが、民達は従いませんでした。その結果、B.C.597に彼らはまた侵略を受ける事になってしまいました。その為、何千人もの人々がカルデヤの地に連れて行かれてしまいました。その中にはエゼキエルもいました。しかし、パレスチナ地方に残る事を許された民達は続けて偶像礼拝をし、神様に対して罪を犯し続けました。多くの捕虜となったユダヤ人達は直ぐにでも解放されると思っていたようですが、神様はエゼキエルを通して、彼らが罪を悔い改めない限り解放されないと言われました。残念ながら、その事を聞いても民達は罪を辞めようとはせず、心を頑なにして神様の言う事を聞こうとしませんでした。また、エゼキエルは民達が大切にしている偶像の場所を打ち壊わすと3節で預言しました。「 言え。イスラエルの山々よ。神である主のことばを聞け。神である主は、山や丘、谷川や谷に向かってこう仰せられる。見よ。わたしは剣をあなたがたにもたらし、あなたがたの高き所を打ちこわす。」その山々では、偶像に子供達までもが捧げられていて、神様は本当に心を痛めておられたのです。この「」とは神様に使われたバビロンの軍を指しています。この後、イスラエルの民は3度目の侵略を受け、国はほぼ壊滅状態になってしまいました。この侵略を許されたのは神様です。例え人間がどんなに頑張って止めようとしても、無駄だった事でしょう。

 

民達が偶像に頼った結果、国自体が汚されていました。その為、神様に遣わされたバビロンの軍は汚された物をことごとく滅ぼして行きました。まず、民達が神として拝んでいた偶像を全て壊して行きました。私たちの神様は出エジプト記3414にあるようにねたまれる神様です。「あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである【主】は、ねたむ神であるから。」やはり民達に他の神々がいた事を嬉しく思っていなかったのです。また、レビ記2630にもこうあります。「わたしはあなたがたの高き所をこぼち、香の台を切り倒し、偶像の死体の上に、あなたがたの死体を積み上げる。わたしはあなたがたを忌みきらう。

 

実際にバビロンの軍隊が侵略しに来た時、民達は怖がって自分の偶像に助けを求めました。エレミヤ228にはこうあります。「では、あなたが造った神々はどこにいるのか。あなたのわざわいのときには、彼らが立って救えばよい。ユダよ。あなたの神々は、あなたの町の数ほどもいるからだ。」しかし、彼らが偶像の神々に助けを求めている最中、彼らは次々と殺されてしまいました。偶像は彼らを助ける事は出来ませんでした。ここで彼らは偶像の神々は本物でない事に気がつかされた事でしょう。でも、既に時遅し、の状態でした。エゼキエル511それゆえ、──わたしは生きている。神である主の御告げ──あなたはあなたのすべての忌むべきものと、すべての忌みきらうべきことで、わたしの聖所を汚したので、わたしはあなたを取り去り、わたしはあなたを惜しまず、また、あわれまない。」また、民達だけが滅ぼされたのではなく、町も神様の宮も滅ぼされてしまいました。それは、民達が偶像と汚れた行いをし、町も宮も汚してしまっていたからです。しかし、全ての民を滅ぼす事を神様はお許しになりませんでした。7節にはこうあります。「しかし、わたしは、あなたがたのある者を残しておく。わたしがあなたがたを国々に追い散らすとき、剣をのがれた者たちを諸国の民の中におらせる。」神様の哀れみによって生かされた者達は色々と状況を掴む事が出来たでしょう。そして、それが神様に立ち返る第一歩となった事でしょう。神様はどんな罪であれ、そのまま見逃して許すことはなさいません。罪の結果は必ず滅びと死だからです。やはり、真の神様は偶像と比較出来ません。神様は哀れみ深く、恵み深い方です。この神様を敵に回したくありませんし、がっかりさせたくありません。ゼカリヤ109にこのようにあります。「わたしは彼らを国々の民の間にまき散らすが、彼らは遠くの国々でわたしを思い出し、その子らとともに生きながらえて帰って来る。」この書を読むと、神様は確かにユダヤ人達をバラバラに散らされましたが、その場その場で彼らは祝福されました。やはり、神様はアブラハムに約束されたように、彼らを祝福されたのです。神様は哀れみ深く、恵み深い方ですけど、私たち人間は調子よく栄えると、神様を忘れてしまいがちです。その度に、私たちは色々な事を通して学ばせられるかもしれません。悲しく、上手く全てが進まない時、多くの人は神様に顔を向けやすくなるようです。放蕩息子のお話しでもそうですが、もうダメだと息子が思った時、彼は父の事を思い出しました。そして、家の方へと歩いて行き、父に罪を告白し、悔い改め、赦されました。

 

10節にはこうあります。「 彼らは、わたしが【主】であること、また、わたしがゆえもなくこのわざわいを彼らに下すと言ったのではないことを知ろう。」」神様には全て計画があります。今回のケースは、民達を偶像から解放する…と言う事でした。民達は度々神様の心を痛める事をしました。その都度、神様は哀れみを持って彼らを教えられました。民達が罰を受けるのも、神様は彼らの霊の目を開く為にその事を許されていたのです。神様は今も誰一人として罪と共に滅びて欲しくないと思っておられます。ですから、私たちを滅ぼさない為に、色々なやり方で私たちに教えてくださいます。どんな時でも、私たちは神様に従えるものでありたいですね。

 

ゴールデンテキスト

 

イザヤ書218節「 偽りの神々は消えうせる。

 


 BMC日曜学校テキスト〈大人のクラス〉より

 

翻訳  猪坂 知央