今日のレッスンでは、信仰によって歩む事が人生や性格にどんな影響を及ぼすかを見てみたいと思います。クリスチャンとして歩むことは、とても素晴らしい人生の歩みなのです。それはどうしてでしょうか。それは、やはり罪から救われ、また神様と仲直りが出来ている、そして、勝利に満たされているから、と沢山の理由を上げる事が出来ると思います。
勝利の人生 1-5節
一節には「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」と書いてあります。この箇所を読んで見ると、義と認められた私たちはもう罪から解放されたと書かれてあります。また、神様が私たちの罪を忘れてくださった事により、「神との平和を持っている」と言う事が可能になります。その平和とは内に与えられているものです。そのため「神からの平和」ではなく、「神との平和」と言う表現になるでしょう。神様との関係が、罪から救われる前と後ではまったく違うと言う事です。
イエス・キリストにより義と認められた私たちは、恵みに導き入れられる特権を与えられたのです。また、私たちにただ平安があるだけでなく、恵みに加え、栄光の希望が与えられます。その結果、例え患難の中でも喜びを見出す事が出来ます。この患難とは、ラテン語では脱穀という意味があるようで、麦の粒ともみ殻を分ける作業を意味しています。患難に勝利する事により、より成長させて頂けるのです。全ての人間は苦しみ、悲しみ、苦痛、また逆境を味わうと思います。クリスチャンたちは、この患難を乗り越える事による益もある事に気が付かなければなりません。「患難が忍耐を生み出し」と3節にありますが、それによって耐久性、また恒常が生まれます。また忍耐を保つ事により強さ、堅固さが生まれます。しっかりと信仰と真実をもって、義務を果たすことができるでしょう。この世の中でも素晴らしい人格は苦労、苦痛無しに生まれないとまで言われています。患難とは、忍耐を学べる最高の学校と言っても言い過ぎではないでしょう。また、忍耐により経験も積む事ができますし、霊的な事や恵みをもっと理解し成長する事もできます。私たちが苦しい所を通る時、そして神に信頼する事により、もっと神様の事が分かってくるでしょう。そのことにより、神様に対しての希望も出て来ます。少しずつでも患難に対して勝利をし、それを味わえば、次の戦いに対しても勝てると言う自信と勇気が出て来ます。
5節には「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とあります。ここに書かれているように、私たちは神様にがっかりさせられる事はないのです。それは与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。感謝します!
弁済された(あがなわれた)人生 6-8節
6節には「私たちがまだ弱かったとき」とありますが、私たちがまだ罪に溺れていた時は自分自信を救う事ができませんでした。それは罪に足を引っ張られていた状態で、病気にかかると体が弱りますが、やはり罪に溺れていたら人間は弱いと言う事です。「キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。」とありますが、すべての人間は救われる前は「不敬虔な者」でした。しかし、その「不敬虔な者」のために、イエス・キリストは命まで捧げて下さったのです。そして、すでに私たちの罪の罰まで受けて下さったのです。ここに神の愛が示されています。神様は私たちを守り、心配してくださり、好意を示してくださったのです。パウロは、正しい人の為に死ぬ人はほとんどありません、情け深い人の為には進んで死ぬ人があるいはいるでしょう、と言っています。8節には「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」とありますが、まだ私たちが神様に立ち返る前に、既に神は私たちに愛を示して下さったのです。イエス・キリストの死は仕方がなくではなく、無意識にしたのでもなく、また偶然でもありませんでした。私たちへの愛の為、自ら進んで私たちの罰を受けて下さったのです。彼は私たちのヒーロー、友達、また兄弟として死んで下さったのです。旧約聖書や新約聖書には、たくさんの奇跡が記されていますが、イエス・キリストが私たちの為に罪の罰を受けて下さった事は、それらの奇跡に優っています。ローマ8章32節には「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」とあります。
仲直りした人生 9-11節
9節には「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」と書かれてあります。ここで書かれている「救われる」とは、肉の欲からも解放されるという意味も含まれています。これを私達は「聖め」と言っています。この仲直りした人生とは、今までの神様と私たちとの関係が変わったと言う事です。ヘブル書12章10節にはこう書いてあります。「なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」ここに書いてある「聖さ」は私たちが求めるべきものであって、神様もそれを私たちにも求めておられるのです。イエス・キリストによって救われたのですから、キリストに似たものとなるべきでしょう。私たちが救いを受けて、聖められることによって、沢山の祝福をもっと受けることができます。11節にあるように、「そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」と私たちが神様を大いに喜ぶことが出来、またヨハネ15章11節にあるように「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」と私たちが喜びに満たされるためです。この喜びとは
①良いことをする事に対しての喜び
②神様に従っている喜び
③他の人の為に尽くしている喜びを指しています。これらの喜びは、私たち自身が神様に赦され、和解出来たからこそ持つことができるのです。信仰に入るとは、まるで大きな素晴らしい部屋に繋がる小さな入り口をくぐるようなものです。このすばらしい部屋に信仰を持って入ると、中にはたくさんの祝福が待っている感じでしょうか。私たちも祝福された人生を歩もうではありませんか。大胆に神様に従おうではありませんか。
ゴールデンテキスト
【新改訳改訂第3版】
Ⅰペテロ 3章18 説「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」
BMC日曜学校テキスト〈大人のクラス〉より
翻訳 猪坂 知央