今日のレッスンでは、昔の教会でも問題になった事を皆さんと一緒に考えて見たいと思います。その当時の教会でも、色々な人がいました。その為、色々な意見ももちろんありました。私たちの今の時代でも同じような問題があるかもしれません。その問題にパウロがどのように対処したか見て見ましょう。

 

最初に議題に上がったのは、クリスチャンは何を食べて良いのか悪いのかでした。あるユダヤ人達は、ローマでは普通に食べられている肉などを食べると汚されると思っていたようです。その当時、お店で売られていた肉類などは、まず最初に偶像に捧げられていたようです。そのような肉を食べても良いと皆さんは思いますか?そのような肉を食べると、その偶像礼拝に参加したことになるのでしょうか?

 

ユダヤ人でイエス・キリストを主として信じたクリスチャン達でも、まだユダヤ教徒の教えが染みついていたようですね。その為、偶像に捧げられた肉は汚れた物として見ていました。パウロは異邦人にこのように教えています。1節「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」罪から救われたばかりの人々は、色々な事が初めてなので、戸惑いなど色々とあると思います。そのような人々を裁くのではなく、励まし、神様の道へと導くのが一番大事だと思います。

 

この何を食べて良いか悪いかの問題には、幾つか気を付けなければいけない点があります。2節に「 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。」とあるように、色々と気を付けている人にとっては、何を食べても良いと思う人を見ると、律法に反していると思ってしまうかもしれません。でも、パウロは3節で「食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」と、その人は神に受け入れられたので、他の人がどうこう言う必要が無いとはっきりと言っています。神様が彼らを受け入れたのであれば、私たちもどんな人でも受け入れる必要があるようです。

 

4節では「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」と全てを神様にお任せするべきだと書いてあります。非難するべきではないようです。神様は、どんな人をも立たせる事がお出来になるからです。そしてもう倒れないように守る事もお出来になります。

 

色々な種類の食べ物や、偶像に捧げられた肉などの問題の事ですが、続けてパウロはこのように14節で言っています。「主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。」どんな食べ物でも、私たちの霊や性質に悪影響を及ぼすものはありません。例え、食べた物が偶像に捧げられていた物だったとしても、他の食物と同じように私たちの体にとって力と栄養になります。しかし、パウロは14節の終わりの所で、このように気をつけなさいと付け加えて言っています。「ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。」どうしてでしょうか?もし、自分で汚れていると分かっていて、また罪悪感を無視して、それでも食べるなら、それはあなたにとって汚れた物となるからです。

 

もう一つの議題は、どの日を神聖とするべきかでした。旧約聖書では、神様は民達に過ぎ越しの祭りなどを守るようにと言われました。しかし、イエス・キリストがこの地上に来て下さった事により全てが成就され、もうそれらのしきたりは民達が守らなければならないものではなくなりました。その為、その習慣は私たち異邦人にも受け継がれませんでした。しかし、今までユダヤ教の教えに従っていた新しいクリスチャン達は戸惑いました。

 

パウロは彼らに、クリスチャンとしてどのようにするべきだ、と言ったでしょうか?5節にありますが、「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。」と勧めました。やはり、クリスチャンとして歩む為には、毎日を感謝して主の栄光の為に歩むべきでしょう。神様と共に歩むとは、毎日が特別な日になると言う事です。

 

7節には、「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。」とありますが、私たちクリスチャンにとって、神の御心を行う事が生きがいになるでしょう。また、自己中心的な歩みをするのではなく、他の人の事を思って一つ一つ行動をするのが良いでしょう。

 

キリストの死と復活によって救われて、主イエス・キリストこそがあなたの支配者であられるのであれば、どうして10節にあるように兄弟を裁いたり、侮ったりできるでしょうか?「それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。」あなたの周りの人がキリストの家族「兄弟姉妹」であるのであれば、彼らはあなたの愛をうけるのに値する者です。そして、私たち皆、神の裁きを受けなければなりません。一人一人が責任を持って神の前に立たなければならないのであって、私たちは他人の責任を負う必要はありません。その為、他人を侮ったり、裁くのではなく、ルカ173節にあるように、「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。」また、テトス215節「あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。」と言われている箇所をも思い起してください。そこには、もし兄弟が罪を犯すなら、彼を戒めなさいと勧められています。私たちは、いつも何が正しい事かをしっかりと握っていなさいとも勧められています。12節にこのようにあるからです。「こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。」私たちの日ごろからの行動、言葉、考えた事全てを神様に報告しなければなりません。神様は私たちの事を全てご存知なので、偽りの証言はできません。だからこそ、13節にあるようにしましょう。「ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

 

17節から19節にはこのようにあります。「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」これらの義と平和と聖霊による喜びを保つ為には、聖霊様が私たちの心に留まって私たちを支配して下さらないと難しいでしょう。これからも、聖霊様に私たちの人生を導いていただきましょう。そして、神様に喜ばれ、人々にも認められる者とへ変えていただきましょう。

 

ゴールデンテキスト

 

I コリント10章33節

私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。」


BMC日曜学校テキスト〈大人のクラス〉より

 

翻訳  猪坂 知央