今日の箇所にはイエス様が十字架にかかる少し前の出来事が書かれてあります。多くの宗教指導者達はイエス様の事を良く思っていませんでした。その中でもパリサイ人は、特にイエス様の事を嫌っていました。今日の箇所から何が学べるか見て見ましょう。
言葉と行い 1節から4節
2節「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。」律法学者やパリサイ人達は、宗教的に権力の座に着いていると思っていました。また、彼らは律法を自分の言葉と合わせて、人々に色々と付け加えて教えていました。イエス・キリストは律法を破棄する為にこの世に来たのではなく、成就させる為に来ました。律法はもちろん悪いものではありません。ただ、ここで問題なのは、宗教指導者達が律法に色々と付け加え、自分達が今まで大事にして来たしきたりや、習わしも混合して、それらを人々に押し付けていたのです。4節「また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。」彼らは自分達を特別扱いし、人々に対しては厳しい目で何時も見て、裁いていました。イエス様はこれらの事を見てどんなに悲しまれた事でしょう。そして、3節のように歩みなさいと言われています。「ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。」彼らは確かにモーセの律法を教えていました。しかし、パリサイ人のように死んだ行いと立派な恰好などに捕らわれないように気をつけなさいと教えているのです。
人に認められるのを好む 5節から12節
5節「 彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。」イエス様はマタイ6章5節でこのようにも言っています。「また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」彼らが本当に神様に近づき、一緒に歩もうとしていたならば素晴らしかったのですが、彼らは霊的な事を求めず、霊的に見られる事だけを追い求めていたのです。6節と7節にはこうあります。「宴会では上座を、会堂では上席を好み、広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。」霊的に人から見られるだけでなく、目上の者として人々から見られる事を、彼らは求めていました。しかも、宮の中でも彼らはそれらを求めていたのです。神の宮こそ、神様がほめたたえられるべき所です。しかし、彼らはその場も奪おうとしていたのです。神様はへりくだり、謙遜な者を喜ばれます。また、彼らは「先生」と呼ばれる事がとても好きだったようです。それらの問題を解決する為にイエス様は8節のように弟子たちに教えられました。「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。」9節「あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。」父とは、全ての権力があり、人に指示出来る人の事です。その為、それに相応しいいのは天のお父様だけです。私たちは神様に対して、謙遜な気持ちを忘れてはいけません。マタイ20章28節にはこのように歩みなさいと教えられています。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」しもべには、他の人の必要を補填する役割があります。高慢になる事は罪です。神様は高慢な者を退けます。しかし、へりくだる者には恵みを与えて下さります。
l 皆さんは教会に行く前、自分の心を整える為に時間を費やします?それとも、見た目の為にもっと時間を必要としますか?
彼らが非難される 13節から15節
13節「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。」イエス様ははっきりとパリサイ人や宗教指導者達の事を皆の前で非難しました。本質が大事であり、仕事上のタイトルなど関係ありません。また、イエス様は彼らの事を偽善者と言われました。それは、イエス様は彼らの心の中に何があるか分かっていたからです。彼らは確かに外見上、素晴らしいい信仰のリーダーのように見えたでしょう。しかし、心の中にあるものはその真逆だったのです。今、私たちの心の中には何があるでしょうか?
イエス様は続けて彼らをこのように非難しました。「おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。」彼らは、形だけの宗教ばかり人々に教え、事を複雑にしていました。シンプルにイエス様を信じて、信仰によって歩む事を教えていなかったのです。彼らこそ、イエス様こそメシヤだと直ぐに気づいてもおかしくないくらい、聖書の勉強を日々していたと思います。しかし、それどころか、神の御子であるイエス様を拒み、人々にイエス様について行くなとも教えていました。
旧約聖書でも、新約聖書でも、神様は特別に父親がいない子供ややもめの事を気遣っています。この時代、彼らには補償などなく、弱い立場にいました。パリサイ人達は彼らを利用し、自分達の立場が高い事を彼らにアピールし、長いお祈りをし、すごい人達だと思わせていたようです。イザヤ書10章1節と2節にこうあります。「わざわいだ。不義の掟を制定する者、不当な判決を書いている者たち。彼らは弱い者の訴えを退け、私の民のうちの貧しい者の権利をかすめる。こうして、やもめは彼らの餌食となり、みなしごたちは奪い取られる。」15節「 わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ。」
パウロもイエス様の弟子になる前はクリスチャン達が嫌いで、捕まえては牢屋にいれていました。それでも、彼は彼なりに神様の為にそれらをしていると思っていたのです。イエス様をメシヤだと認めない事により、気づかずに神様の敵になってしまい、悪いゲヘナの子になってしまうのです
l 人は人の外見を見るが、神様は人間の心を見る。
ゴールデンテキスト
マタイ23章12節「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」